Scribble at 2021-02-28 01:15:52 Last modified: unmodified

このところ「時間は実在しない」という論説が幾つか出版されたけれど、一般読者にも(もちろん大半の科学哲学プロパーにも)インパクトがないらしく、例の「(特殊)相対論は間違ってる系」とか「不完全性定理は間違ってる系」などと呼ばれる、二流科学者や素人科学ファンが毎年のようにどこかでウェブ・ページや電子書籍を「出版」して演ずる逆張りの一発芸と同類の際物として消化された様子がある。しかし、そういう人々には気の毒だが、哲学ではこうした議論は一定の愛好家がいるし、古典としての積み上げもそれなりにある。

ただ、時間とは何かという、これまた古典的な問いを扱う議論と同じくらい、時間の実在を否定する議論も錯綜している。どう時間は在るのかが哲学者や科学者によって異なるのと同じく、どう時間は無いのかについても、哲学者や科学者によって異なるからなのだろう。もちろん、そういう〈事実〉から出発して時間を一つの cognitive closure のトピックとして扱ってもいいとは思うのだが。

時刻が実在しないという議論なら小学生にでもできる。日本に住む大半の人々は1月1日の零時を迎えると一斉に挨拶したり馬鹿騒ぎを始めるが、YouTube で海外のライヴ映像を観ているなら、ニュージーランドの人々は4時間くらい早く馬鹿騒ぎを始めているし、ドイツの人々はカウントダウンすら始めていないと気づいたら、時刻なんてものは便宜的な取り決めとして測っているだけの数値でしかないと思い至るだろう。そして少し調べたら、単位としての1秒という現象が何か宇宙の本質的な特性に由来しているのかというと、別にそこまで根本的な特性というわけでもないとも分かるだろう。或る物理的な現象が一定の回数だけ〈規則的に振る舞う〉ということを根拠にしていると言われても、少し考えれば〈規則的に振る舞う〉とは〈一定のペースで振る舞う〉ということなので、これは時間の規則性や単調性という性質に関しては循環論法だと分かる筈である。或る現象が規則的かつ単調に振る舞うと言えるのは、それらが時間の間隔という基準にあって一定の割合で起きている筈だからだと言えるからであって、その単調さが成立していることを論証なり実証するには、或る単位で測れる時間の間隔という尺度がどこかになくてはいけない。しかし、それこそが我々の求めるものであろう。こういう議論を、われわれが或る現象を単調に〈感じる〉などと認識論の厨房へ運び込んで別の料理に仕立て上げようとしたところで、結果は同じである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook