Scribble at 2021-02-24 17:33:14 Last modified: unmodified

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眠たくならず、腹も減らず、しかも疲れない。でも座れる程度しか場所がない山の頂上で、いつまでも過ごし続けることが、悪魔と不老不死の契約を交わす条件だとしよう。

このような妄想を始めると、人はいつまでもその是非について空想を巡らせ、ときとして Analysis ていどの雑誌に3ページくらいの論文を公表したりする。もちろん、このような〈ありえない〉空想を仮定した議論に哲学的な価値が殆どないことは、実はみんな分かっている(でも、Analysis に論文を掲載して実績を積み上げるていどの役には立つ!)。しかし、〈ありえない〉空想だからこそ価値がないのかというと、そういうわけではない。なぜなら、それが〈ありえない〉のはなぜかとか、論理的に矛盾した表現であるのはなぜかを問う価値があれば、それを概念として理解できなくても、ひとまず言葉の操作として扱うことはできるからだ。では、そういう場合にも矛盾したまま〈概念〉として理解できると言えるのかどうかは、これもまた分からない。先の落書きで書いたように、人がいなくても成立するような事態を扱う形而上学なり存在論は、確かに人がいなくては〈議論はできない〉のかもしれないが、だからといってヒトという一定の範囲で共通の特性をもつ生物種がいなければ〈議論〉と呼ばれる何らかの〈知的〉な営みが成立しないのかと言えば、それを論証できる保証もない。

冒頭で紹介した仙人寓話みたいなものを展開するのかと期待していた方には気の毒だが、僕はその手の御伽噺を哲学者として議論する趣味はない。およそ、哲学において扱われる喩え話や「モデル」の議論は、その具体的な詳細よりも動機(趣旨)にこそ哲学的な力点があり、そして残念ながら多くの場合に、その力点は偏見や論点先取である。

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