Scribble at 2021-02-23 18:24:26 Last modified: 2021-03-04 23:18:22

"philosophy of science" とか「科学哲学」という名称が不正確だとか、あるいは西洋と東洋に限らず知識や探求といった成果なり活動なり能力の全般を指すという意味で僕が考えているのは、〈本来の哲学〉などと表す自己目的化した着想ではない。寧ろ、僕が着想の原点に置いているのは、人が何事かを真面目に考えるという事実である。そういう事実に、魚屋だデリヘル嬢だハーヴァードの哲学教授だといった区別は何の関係もない。

僕が昔から避けようとしたり侮蔑してきたのは、ものごとを考えるにあたって必要でも本質的でもない条件を課して、哲学という専門的な活動の実務を〈秘術化〉して、ものを考えるということに何らかのヒエラルキーを導入しようとするプロパーの陋習である(僕は、それは「オタク化」でしかないと思う)。その典型が、外国語の習得だったり、僕が大学で専攻した科学基礎論や科学哲学では、自然科学のテクニカルで〈高度な〉知識や情報であろう。しかし、実際のところラテン語の習得によって自らの課題について本質的に何が哲学的に重要で本質的な寄与なのかを論証できる人は殆どいないし、おおよそ修士レベルを越えるような物理学の知識なり計算ができることで科学哲学の議論でどういう新しい知見が獲得できたり、新しい視野が開けるのか、明解に論証したり実証してみせた者はいない。その議論をするために量子情報とか進化の中立説を知っている必要があるのかという簡単な議論すら、殆どお目にかかれないのが実情であろう。

もちろん、外国語は学んだ方が〈良い〉と言える。量子力学や進化論は知っておいて損はない。しかし、それは科学哲学のプロパーでなくても、金融業界に入ったばかりの新卒にだって言えるし、インスタ映えする弁当を作るのに忙しい主婦にだって言える。そんなことは、寛容の精神やら知的誠実さ云々といった貴族主義的な高潔さなどなくても万人に当てはまる、場末の占い師が口にするようなセリフであろう。もちろん、その(自己啓発セミナーや占い師のセリフに近い)普遍的な有効性ゆえに、目の前に翻訳されていない文書が置かれていたり、興味深そうな本を手にした人物がいるときに、文書や相手が伝えようとする何事かを少なくとも受け取る(〈理解〉できる保証はない)用意はできた方が望ましい。雑な意味での〈多様性〉という観点からも、多くの異なる知見や考え方が影響しあうことにも意義はあろう(そこから、必ずしも〈良い〉結果が生じるとは限らない。新しいテロの思想やカルト宗教の教義が生まれる可能性だってあるし、事実としてそういうことは過去に何度か起きた)。しかし、それがものごとを自分で考えるとか哲学することの本質的な条件であるかと言われたら、古典の研究者には気の毒だが、そんなことは断じてありえないと思う。仮に僕らが「哲学の古典」と呼ばれる著作を一つも手にしていない状況であろうと、ものごとを真面目に考えるという活動は生じるし、周囲に外国語を話す者が一人もいないとしても、同じであろう。

よって、僕が自分の専攻として最も近いディシプリンを科学哲学としてきたり、このサイトでも「科学哲学」とか "philosophy of science" という表現を使っている理由は、簡単に言えば「マーケティング」である。しかし、実際のところ僕の力点はそういうところにはない。最初から議論の内容に関心があって文章を読んでくれる人にしてみれば、それが「科学哲学の」議論であるかどうかは、どうでもよい筈である。僕が力点を置いているニュアンスは、"philosophy VS. science" とか "philosophy AND science" ではなく、"philosophy OR science" である(念の為だが、XOR ではない)。僕らの思索なり議論の実態は、要するに「哲学」とか「科学」という既存の(とりわけ大学行政や出版業界での)区分けとは関係ないのであり、もちろん「理系」や「文系」といった(事実上の)差別用語とも関係がない。正確に言い表すのはこれからの仕事なのだが、僕は〈科学的な哲学〉とか〈科学についての哲学〉をやっているわけではないのである。〈哲学する〉ということにアイデンティティを置いている時点で、既に見識として狭いし偏っている気がする。

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