Scribble at 2021-02-22 10:16:43 Last modified: 2021-02-22 10:21:33

There are two kinds of pseudophilosophy, one mostly harmless and the other insidious. The first variety is usually found in popular scientific contexts. This is where writers, typically with a background in the natural sciences, walk self-confidently into philosophical territory without realising it, and without conscientious attention to relevant philosophical distinctions and arguments. Often implicit empiricist assumptions in epistemology, metaphysics and the philosophy of language are relied upon as if they were self-evident, and without awareness of the threat that those very assumptions pose to the author’s own reasoning. We can call this phenomenon scientistic pseudophilosophy.

Pseudophilosophy encourages confused, self-indulgent thinking

二つの「疑似哲学」について、前者は「素人哲学」で、後者は「濫用哲学」と言えるのだろう。だが、それらのどちらも僕は "pseudo" と断定するだけの根拠に欠けると思う。そもそも、科学者であれ居酒屋の店長であれ、philosophizing しているケースはあるということを許容する脈絡で、僕は前者の「素人哲学」を「疑似哲学」に数え上げる著者のスタンスは、はっきり言って単なる権威主義だと思う(僕は社会において権威は擬制として必要だと思うので、権威そのものは否定しない)。自覚があろうとなかろうと、物理学者や気象学者が〈実質的に哲学をやっている〉と言えるような思考をしていたとして、それに何の不都合があろうか。それとも、物理学者は一から十まで〈物理学者的な思考〉をしなければ不純な理論が導かれるとでも言うのか。

後者は、いわゆる「知の欺瞞」を逆手にとった「ポモの濫用」というわけだが、これにしても僕はリサーチ・プログラムの一つとして許容するのが正しいと思う。要は学者は結果が全てであり、研究のアイデアとしてフーコーの著作に学ぼうと般若心経を手がかりにしようと、そんなことは「どうでもよい anything goes」のである。もちろん、その結果によって断罪されるのは仕方のないことだろう。それゆえ、ハイデガーはナチスとの関わりを問われ続けるだろうし、日本ではあまりない話だが、ヒュームですら或る種のテロリズムを教唆したと断罪される場合もある。しかし、だからといって(哲学プロパーのではなく)哲学的な思索というものの本質からいって、原理的な基準を貫徹したり普遍化するといった手続きを止めるわけにはいかないし、やめることなどありえない。

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