Scribble at 2021-02-07 22:23:50 Last modified: 2021-02-08 14:51:31

これまで批評してきたように、僕は哲学するということを啓発するのは大切だと述べてきた。哲学するということは、単に特定の話題や問いに関心があるとか、特定の本を読んだとか、そういう瑣末な理由だけで「哲学」という既存の(つまり制度化された)学問に興味をもつ者だけが取り組んだり悩めばいいというものではないからだ。

しかし他方、僕はこれまで、古典的著作の解釈や流行本のキーワードや専門家の議論を、単なる興味深い話題やおトク情報として平易に書き殴ったり、いかにも哲学的な問いを相手の事情や脈絡と関係なしに学生や素人へ投げつけて、そういう釣り餌にかかる人々だけを相手にするような手法は、一見すると専門家以外の人々にも向けられている正当な(あるいは日本人特有の「純粋な動機」によって正当化しうると誤解されがちな)啓蒙であるかのように見えるが、実際には無益であるとも述べてきた。そういう無益な(そして場合によっては有害と思える)手法として、クリティカル・シンキング、「問題解決法」と称するビジネス書、哲学カフェ、哲学についての通俗書や研究者のエッセイ、古典の「超訳」や雑な梗概本、イラストや図表あるいはマンガによる安易な図式化・視覚化を導入した入門書、それから歴史的経緯や比較思想史の観点を無視した通覧的な(つまり、誰それについて書いた後に、なぜなのか当人も分からないまま、続けて他の誰それについて書くといった安易な)哲学史の教科書などが数えられる。

はっきり言って、こういう企画や出版をこれから何千年と継続していこうとも、社会科学的に何らかの差があると有意に認め得るような効用が世の中にもたらされると期待できるかどうかは自明ではないし、少なくとも僕が経験してきた50年ほどのあいだに何か重大な効果があったと言える証拠は全くない。たとえば 1980 年代に『構造と力』がベストセラーになったとか、1990年代に『ソフィーの世界』がベストセラーになったとか、2010年代にニーチェの超訳や通俗ギリシア哲学が流行したとか、そんな些末なことは哲学的に何の意味もないし、社会科学的にも何か重大な影響が世の中に及んだと誰が論証できようか。もちろん、それゆえに敢えてこれらの活動があったからこそ、逆に悪くもなっていないのだ(これらの啓蒙と称する活動が、更に悪くなっていたであろう世の中を食い止めていたのだ)と抗弁する余地はあるのかもしれないが、いずれにせよ、それもまた論証不能であろう。そこで、これらの手法やアプローチに共通している欠陥(端的に言えば、自己欺瞞や自意識過剰による思い込みにもとづく、敢えて言えば「非哲学的」「反哲学的」とも言い得るような、反省や思考の欠如)を改めて指摘し、人が何かを理解したり考えるにあたって哲学するということが何なのかを問いなおし、哲学するということには何が求められるべきなのか(あるいは何も求めるべきではないのか)を、改めて手短に検討する。

まず確認しておくべきことは、「哲学するということ」のような、一見すると回りくどい表現を使わざるを得ない理由である。単に「哲学」と表現したくない理由は、ここで言っていることが大学をはじめとする特定の制度を前提にした、学科目や学界のことではないからである。土質工学の研究者が何かを考えるにあたって「哲学するということ」に何の不都合もないし、逆に哲学の研究者が何かを考えるにあたって「哲学するということ」を完全に欠いている場合もあろう。したがって、「哲学するということ」は、大学で研究職に携わっている教員(シンクタンクなど大学以外の法人で専門に研究している人も含めて、本稿では「プロパー」と呼ぶ)だけがやっていることという意味ではないし、哲学に興味があると称している多くの人々がやっていることだとも限らないのである(もちろん、それは僕自身にも当てはまる)。極端な例で言えば、ロクでもない人間が在日外国人や女性や高齢者や身体障碍者や被差別者全般をどうやって罵倒すれば多くの人々を「釣れ」て注目されるのかと考えているとき、ヤクザが自分の部下にどういう指示を与えたらよいのかと考えているとき、女子高生が同級生を悪質な方法で苛めるにはどうすればいいかと考えているとき、それからテロリストがどうやって効果的に多くの人を殺せるか考えているときに、実質的に「哲学するということ」をまさにやっているとしても何の不都合もないわけである。

したがって、「哲学するということ」の明白な一つの条件は、考えるということである。そして、それをするにあたって何の資格も必要ない。しかし、だからといって “Philosophy for Everyone” とか幼児に哲学の情操教育を勧めるようなアプローチが望ましいのかといえば、それは全く違う。なぜなら、まず “Philosophy for Everyone” というアプローチは「対話」や「共生」によって哲学を全ての人へ開放すると称しつつ、教える側・啓発する側と、学ぶ側・啓発される側との非対称な関係について不問にしているからである。だが、これではプロレタリアート独裁の先鋒を名乗っていたソビエト共産党の官僚や、スメラミコトの「お心」に従っているなどと不敬にも称しているネトウヨ小僧と同じである。よって、〈哲学〉を〈与える〉とか、今風に誤魔化された表現を使えば〈シェアする〉などと称するイベントに参加する人々は、何がどうなろうと常に教わる側・学ぶ側であって、その場で彼ら主催者やメンターとどのような議論を展開しても、彼らの代わりに東大教授になったり岩波書店から専門書を出版したりはできないのである(もちろん、哲学するということの本義にとって、そんなことは目的でも手段でもないが)。

この手のイベントを主催するのが好きな人々は、その大多数が大学の教員なのだが、そもそも彼らは自分たちが勤務する大学において自分たちの講義や演習を履修した学生にこそ、まずもって真面目に哲学に取り組むべき指導を行うことが第一の職責のはずである。自ら志望して「哲学科」というコースへやってきた人々への introduction に失敗しているような者が、どうして多様な目的や動機や脈絡にある一般公衆に向かって introductory なアプローチを首尾よく達成できるというのか。あるいは、そういう大学での勉強や訓練に励むことなく雑な通俗本を読んだり YouTube の愚にもつかない動画を観たていどで「哲学」と世間的に呼ばれている高尚なステージに〈上がれる〉などと、「わかりやすい」だの「超訳」だのという釣り餌に食らいついてくる愚かな魚だけを釣って、大海に泳いでいる魚の全てを相手にしているつもりになっているのであれば、それは全くの素人漁業、自己欺瞞というものだ。

さて、哲学するということについて議論するためには、多くの論点が考えられる。例えば、いま条件について簡単に取り上げたのだが、他にも条件があり、つまりは複数の必要条件があるのかどうかと問えるだろう。つまり、僕自身が「少なくとも部分的には哲学するということを成し遂げている」と言い得るかどうかの条件の話でもある。そして、その一部分というのは基礎的な段階を終えているという意味なのか、それとも対等な諸条件の一つを満たしているということなのか。こういう論点を解決しておかなければ、僕自身が哲学するということについて何かを述べるにしても、そもそもその資格があるのかどうかが分からないままでは説得力もないだろう。したがって、僕が本質的に何か一つの条件だけを満たせば哲学するということについて理解していることになり、そして実際に僕がその条件を満たしていればよいが、そうでないまま語りうると正当化できるためには、条件が複数あると考えなくてはならないだろう。しかし、それは弁解のために条件を緩めるものであってはいけない。

なお、僕は神戸大学の博士課程を中退しているが、世界中のあらゆる大学の哲学科で学部を卒業した人々や修士号の取得者と同じていどに、哲学について語る〈外形的な〉資格はあるのだろう。しかし、それはどうでもよいことである。なぜなら、プロパーの研究者についてすら、僕から見て哲学を他人に講じる資格があるとは思えないような人物、それは単なる無能というだけではなく、僕が本稿で展開するような意味での、恐らくは最低限度に控え目な意味合いでの哲学すらやっていないと思えるような人物が山ほどいるからだ。

次に、哲学するということに関わる論点の一つは、大学のような教育制度の有無にかかわらず行えること、共有できること、継承したり伝達できることなのかどうかというものである。つまり、ヒトが生理的かつ生態学的・生物社会学的に維持しているシグナリングやコミュニケーションの能力や慣習だけで維持できることなのかどうかという話でもある。一見すると、そういう理由を大きく掲げて、哲学は「在野」でもできると言う人は多いのだが、その根拠を丁寧に論証している事例を僕は見たことがない。しかし、それをしなければ、やはり粗野な印象だけにもとづく素人の負け惜しみや自己正当化にすぎないと見做すのが、多くの人たちの常識というものだ。アマチュアにはアマチュアこその理屈というものが必要であり、昨今では(やや歪んだ仕方ではあるが)「在野研究者」と呼ばれる自意識プレイのプレイヤーが著作物を出すようになってきている。なぜかプロパーと同じく商業出版社からしか文書を発行しようとしないし、商業出版社の主催する文藝賞などへの競争も盛んに行われているという、僕からすればかなり奇妙な「在野」の人々だが。まぁ無能には、過激な主張だとか、(僕に言わせれば鼻で笑うようなレベルの)外見だとか、あるいは元システム屋だのゲーム・デザイナーだのといったキャッチーな肩書だのという、本質的にはどうでもいいことでのスタンドプレーしか取り柄はないのだろう。

他にも、「哲学」あるいは “philosophy” という言葉を、achievement や establishment を印象付けたり示唆する loaded language として扱うことは、無自覚ならなおさら不適切だろう。そういう先入観があると、やはり何か固定した目標とか理念というものがどこかにあるという素朴な真理論や実在論へと簡単に回収されてしまう。あと、なにかこういう議論をしかめっ面して語っているかのように誤解されるといけないのだが、僕はだいたいにおいて自分が研究したりものを考えているときにはリラックスしていることが多い。そのテーマは、自分にとって考えざるを得ない、逃げられないと感ずるものではあるが、だからといって何か辛苦を伴うものでもない。なぜなら、ヒトという生き物が生態の一つとして「哲学」と呼ばれる何事かをしようとしまいと(これは、全ての学問や活動や生活全般にも言えることだが)、この宇宙は何も変わらないからだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook