Scribble at 2021-02-06 10:01:41 Last modified: unmodified

僕が、イラストや漫画で哲学の概念や論争点を解説すると称するアプローチに強い違和感を抱いている理由は、幾つかの異なる観点から説明できる。もちろん、これまでも何度か述べてきたように、プロのデザイナーとして現状の著作物に添付されているイラストや図表やスキーマ(式の構図みたいなもの)がデザインとして稚拙だというのも一つの理由だが、それは僕自身の(恐らく大多数の哲学プロパーを遥かに凌駕する)センスという話に帰着する可能性があるため、それほど説得力はないかもしれな。無能にも、自分なりの幼稚なデザインやセンスを語る権利くらいはあろう。そのていどの権利を保障する度量や〈善意〉くらいは、僕にもある。

しかし他の理由には、議論の余地は幾らでもあるものの、にわかに意見を替えて「イラストでも良いやなどと」許容することが難しい事情もある。その一つが、イラストや図表や漫画やアニメといった、視覚的表現の伝達内容なり受容能力へ依存する説明や議論というものは、要するに universal design ではないということである。端的に言って、吹き出しのテキストを音声出力しただけでは分からないような漫画には、視覚障害者への説明能力が全くないのだ。

もちろん、僕は〈やさしい人〉といった自意識でこんなことを指摘しているわけではないし、偽善者でもない。僕が会社や往来で善人や良識人として振る舞っているのは、まったくの処世術ゆえである。気楽に食べていくための発言や行動であって、誰が反感をもたれるような〈哲学者的発言〉など、相手の事情や脈絡を無視してするものか。自分や連れ合いの生き死にに関わるなら、問答無用で相手を(口頭だけでなく物理的にも)叩き伏せることなど何の躊躇もないが、われわれ哲学者は周りの事情を無視することを以て「哲学者」たらんとするような奇行癖の人間でもなければ、それを好んで実行するような異常者でもない。

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