Scribble at 2021-01-27 10:52:10 Last modified: 2021-01-27 10:56:59
ユタ大学(もとはユタの違う大学の准教授だった)の研究者が受賞している。彼のサイトで紹介されている著作を見ると、theory of agency を継続して扱っていて、特に gamification というコンセプトを真面目に取り上げていることが分かる。グエン(Nguyen)という名前からするとベトナム系の人のようだが、こういうことをいちいち diversity だのなんのと言及する必要もなくなる方が健全な気はする(他方で、差別については言及し続けた方がよい)。それはそうと、この手の話って単純にゲーム理論の応用だと思っているのだけれど、とりわけ昨今のコンピュータ・ゲーム(での行動様式なり、発想への影響なり)に関連して特別な考察や議論が必要なのだろうか。その辺りは、彼のサイトで論文が公開されているので、参考にしたい。そして、それらの論考をまとめた内容と思われる著作物が Oxford U. P. から出るようなので、そちらも目配せしてはおきたい。別に gamification を論じているからといって、通俗的だと簡単に切り捨てるつもりはないからだ。
これは、このサイトで僕が書いている文章によくある誤解だと思うので明言しておくが、僕は哲学(それから哲学的な論説)に純粋も不純もないと思うし、洗練された議論だの何のというスノッブ的な論評も馬鹿げてると思うし、逆に「地に足のついた」などと言う古臭い左翼のような評価基準も下らないと思う。僕が多くの国内の著作を「通俗本」と言って侮蔑するのは、その目的や出版による効用が殆ど真面目に考えられているとは思えないからだ。或る見識なり活動や態度へ(多くの人々ではなくても、少なくとも本を手にとった人を)誘うために、果たして哲学用語を関西弁で解説すればいいのか、ロリコン女子校生のイラストを表紙に描けばいいのか、アイドルに宣伝させたらいいのか、時事の話題をふんだんに取り上げてネタにすればいいのか、全て漫画で描けば〈分かりやすい〉のか、いや、果たして〈分かりやすい〉とはどういうことなのか、哲学への introduction としての意義はもとより社会科学的な観点で言って何の効用があるのか、更には哲学なるものに introduction などありえるのか。こうしたことを著者が考えているとは全く思えないのである。つまり、僕が言っているのは著作物の表現についての即物性というだけではなく、著者や編集者の不見識についてである。哲学の議論を演歌で表現できるかもしれないし、エロアニメですら表現できる可能性はあろう。しかし、いまそれらと殆ど変わりないことをやってる手合いの書くものは、ことごとく〈漫画として程度が低い〉とか〈専門用語を使わない範囲の表現として稚拙で未熟〉なのであって、僕は哲学の研究書や論文に『ワンピース』の一場面を引用したり、発表講演で『北斗の拳』のシーンを流すなど何事かなどと下らない事を言っているわけではないのだ。
つまり、僕が難詰しているのは表現の稚拙さだけではなく、書いている当人の「哲学」を名乗る俗物性(つまりは、ものを出版するにあたって真面目に哲学していない人間が哲学を講じて通俗たらんと欲しているという愚物さ)をこそである。