Scribble at 2021-01-26 13:38:36 Last modified: 2021-01-26 14:03:55

或る、恐らく老境に入った哲学教員と思われる人物のブログを見つけて RSS を取得し始めた。色々と参考になる些細な情報もあるが、やはり論証というスタイルで書いていないためか、怪訝に思うような事柄もある。たとえば、いわゆる「究極の謎」と呼ばれる存在の問いは、何も〈ある〉ことの物理的な原因とか set-up を尋ねているわけではないのであって、物理学というフレームワークの中で答える他にはないという論証なしに物理学者へ問いを放り投げるのは、やはり哲学者としての知的怠慢だと思う。

あと、"historical" という語の訳を用語としてどう訳せるかどうかなんて感覚で言葉を扱うから困るのであって、翻訳ではなく英語を生活の道具として使ってる人間からすれば、こんなのは「ものごとが起きたとおりに」と言えばいいのだ。無理に漢語や熟語を使おうとするのは、分析哲学者という自意識はあるようだけど、まだまだ日本のドイツ・フランス系の訓詁学者の影響を脱していないと思う。

そして、昨今の哲学(というか人文系の学問)いらない論争についてご意見を書かれていて、哲学史を祖述し続けているだけではいけないと書かれているが、実際に大学でご自身がやってるのはそれだろうし、そもそも哲学の本で最も売れているのは、麦茶だか飲茶だかいう素人とか、あるいは哲学の古典の今北産業的なつまみ食いを集めて政府のなんとか委員になってる倫理学者とかが書いた、それこそ体裁を変えただけの哲学史の紹介本ばかりじゃないか。それを正々堂々とプロパーとして取り上げて叩き潰そうとせずに、行儀よく超然主義を気取るなんてのは、われわれ哲学者の最も唾棄すべき態度だ。

そもそも、実情を批評せずになるようになると思っているなら、個人としてそれを弁えておくだけで後は死ぬまで何か他にやっていればいいのであって、他人に哲学を講じる必然性もなければ理由も正当性もなかろう。僕は、ああした通俗本を読んで初めて哲学に興味が出る人たちなんて全く信じていないけれど(なぜなら哲学は書籍として提供される知識の1セットではなく、何事かを真面目に丁寧に考え続けることが、本質とまでは言えなくても大切だからだ。哲学者の書物の羅列について情報を得たていどでもつ興味なんて、しょせんはキャバ嬢に「ふぅーん」と言われるていどのものだ)、しかし他方で「哲学」という言葉をわざわざ使ったり自覚していなくても実質的に哲学していることになる人々には、一定の期待をもっている。そういう期待が一つもないのに、誰が自分の限られた人生の一部を使って哲学のウェブサイトを運営などするものか。自分で納得して済むだけで十分なら、適当な外国語と記憶力だけの無能どもが書いた通俗本なんていちいち取り上げたりしない。

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