Scribble at 2021-01-16 09:11:51 Last modified: unmodified

たまに自分の思い込みというか考えているところを反省してみるのだけれど、たとえば「哲学」という〈言葉〉を自分が重々しく受け止め過ぎではないかと思うことがある。言葉、あるいは絵画やアニメやダンスや演歌でもいいわけだが、ともかく何らかの表現に不必要なくらい過剰な思い入れを持つのは、僕にはセンチメンタリズムとしか思えない。よって、或ることを「哲学」と〈表記〉していようがいまいが、そんなことに拘って「これは『哲学』と称しても良いものだ」とか、「あんなことに『哲学』という言葉を使うべきではない」などと言ったところで、凡人の言語の運用、ひいては表現にまつわる意味とか感情を社会科学的なスケールで制御したり固定することなどできはしない(一部の官僚や広告代理店の社員や宗教団体の広報担当は、そういう手法がないものかと熱望しているのかもしれないが)。誰がどういうことがらに「哲学」という言葉を使おうと、そんなことはわれわれ哲学者の関知するところではないのだ。簡単に言えば、われわれは「哲学者」と名乗ろうと名乗るまいと、あるいは誰かからそう呼ばれようと呼ばれまいと、そうしたことは完全に些末なことだと強く自覚する必要がある。(もちろん、その言葉を使って岩波書店などから発行してほしい自著に帯を巻いてもらいたい、皆様のような凡人には重大な関心事かもしれないが。)

そうは言っても、こうして何らかの表現でもって自分の考えるところを発するしか手立てはないのかもしれない。そしてもちろん、自分自身の表現が自分自身の思うところを正しく表出している保証はないし、そう判断するための条件すら正確には分からず、そして元より「自分自身の思うところ」なんてあるのかどうかすら疑えるだろう。よって、やはり表現とか自らの思考に拠って立つしかないという事実がある一方で、その拠り所が常にあやふやであるという(恐らく)事実にも向き合うのが妥当な態度というものだろう。よく HCI の応用で他人同士の脳神経ネットワークを接続すれば、コミュニケーションは何か〈別のステージ〉へ移行すると説く人がいるわけだが、その送出側であるわれわれ自身の脳で〈何を〉〈どんなふうに〉送出するかを、まさか機械的かつ規則的に決定できるわけでもあるまい。そもそもヒトの脳にそんなことができるなら、機械的かつ規則的に言葉を運用して交わすことだってできた筈なので、それならもとから HCI なんて不要だ。

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