Scribble at 2021-01-15 21:05:53 Last modified: 2021-01-15 21:16:00

"African philosophy" とか "Africana philosophy" と言っても、このような表現の違いや是非については議論がある。「アフリカの」哲学と日本語で表現しても、いまアフリカで蓄積されていってる哲学の成果を指すのか、または(ありうるとすれば)もともとアフリカにあった哲学的思索の歴史学的・思想史的な復元のことなのか、それとも African American も含めた黒人のやってる哲学という(必ずしも offensive なニュアンスはないものの、或る意味では雑な)意味なのかという区別はあろう。

もちろん、我が国の実情を見てもすぐ分かるように、或る人物がアフリカに生まれて教育を受けたからといって、アフリカの(もしあるとして)古来からの哲学的思索の成果を十分にアフリカ人として〈受け継いでいる〉なんて保証はぜんぜんない(たいていの老境に入った哲学プロパーの書く親鸞とか禅の議論は、暇潰しの余技としか言いようがない)。よって、こう言っては悪いが、現在のアフリカの大学で哲学を講じている人々の多くは、その業績一覧などをサイトで見ている限りで判断すると、欧米の大学へ留学してきた「外国かぶれ」が分析哲学や現象学、あるいは個人としての自発的な思想でもなければアフリカに受け継がれていた自生的な思想でもない、ポストコロニアル思想を受け売りだけで講じている疑いがある。ややこしいのは、そういう人々の訴える BLM みたいな主張も、表面的にはアメリカやフランスで叫ばれている主張と見分けがつかないということだ。

なんにせよ、"African philosophy" といったタームを冠した雑誌の多くが10年程度で、つまり創刊したメンバーが大学を退職すると廃刊してしまっているように見えるのは、恐らく世代や地域を超える説得力がないからだ。黒人が主張しているというだけで "black philosophy" である筈がないのと同じく、アフリカ出身者がアフリカの大学で教えたり論文を書くだけで "African philosophy" だと言える筈がないからだ。それはまるで、四国の通俗物書きとか、小平の英雄とか、お勉強君とか、お嬢様大学でレヴィナスを講じていた合気道の達人とかが「われこそは日本哲学の巨人なり」などと筑摩書房や岩波書店あたりから著作集を出してもらうのを眺めるような光景だろう。それでは君、編集工学の松岡某と同じレベルだよ。

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