Scribble at 2021-01-01 18:57:51 Last modified: unmodified

このふたつの論点がどうつながっているのかは、読者としてはよくわからない。しかし、著者はキリスト教の信仰をもちつづけている人だと聞いているので、科学の学説選択の基準は「なんでもあり」ではなく、先近代にもどるわけでもないが、かつては宗教がカバーしていたような価値の領域の復活が必要という方向のような感じがする。

村上 陽一郎 (1979) 新しい科学論

ちょっとよくわからない記事だ。このブログでは科学哲学にかかわる著作も紹介されていて、参考になることもあるのだが、この記事は趣旨が分からない。学生の頃に一読して放置した本を読み返したということのようだが、その動機はブルーバックスから出た別の著者による「科学論」との比較をしたいからということらしい。新書なんてせいぜいポイント一つを掴んだら読み捨てて良いようなものなのであり(誰の書いたものであれ、新書一冊に宇宙の真理が書いてあるとでも期待するなら、そういう人は歴史学とか哲学とかを学ぶ以前に、人としての常識的な推論をする訓練をしたほうがいい)、しかもたかが俗書を古い本と新しい本とで比較して何らかの知見を得ようなどというのは、安易にもほどがあるし、そういう読解は学術的には「針小棒大」としか言いようがない。

なお、当サイトでも何度か言及しているが、この「科学論」という言葉遣いは日本のマスコミ・出版業界の勝手な造語であり、国際的には意味不明である。科学哲学でも科学史でも STS でもなく、かといってそれら学際分野を更に総合した広大な知識か学術研究の分野を指しているわけではなく、社会科学のスキームで解釈すれば、単に「科学についてごちゃごちゃと(特にメタ的な批評を)言ってる連中」という程度の意味しかとれないからだ。要するに、過去にあった公害とか原発とか原爆とか薬害といった社会ネタに関わって科学を批判している左翼やラッダイトや宗教家と混同させるように仕向けているのではないかとすら疑われる、loaded language の一種だと思う。よくある、分からないテーマを一括にして「~論」と呼ぶ素人の言い回しとは、恐らく出自も意図も用法も違う言葉だ。科学哲学のプロパーにおいては当然だが、学術研究に従事する人間なら誰であれ(科学哲学や科学史に何らかの反感を抱いているとしても)避けるべきであろう。

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