Scribble at 2020-12-27 09:45:14 Last modified: 2020-12-27 09:47:50

流行の本、とりわけ哲学の研究書なんてものは、その「流行」が終わってから5年くらい後から読み始めても全く問題ないと言える。そして、僕の実感なり経験では、そういう「流行」とされる時期から30年、つまり書いた当人すら次のステージに進むであろう(有能なら、そうなる筈の)年数が経過した後にも読まれているような本だけが、改めて読み始めるに値するような本だと思う。日本で、もちろん通俗本にそのようなものが殆ど存在しないのは道理というものだが(全く無いとは言わない)、研究書にすらどれほどあろうか。いちど、真面目に日本哲学会は出版業界との人間関係なりしがらみなど〈哲学者〉らしく脇へ置いて、調べたり検討してみてはどうか。

実際、企業人なり一般的な読書家の観点から言っても、同じようなことが言える。数年前に『国家はなぜ衰退するのか』という二冊に分冊されて翻訳された大部の本が、これまたいつものように「現代の古典」などと宣伝されて、暫くすると文庫本にもなったわけだが、オンラインで検索してもまともな書評というものが(翻訳についても、あるいはプロパーならもっと早く原書で読んでいる筈だから原書についても)殆ど見当たらない。早川書房が文庫本にしたくらいなので、恐らく数万部のオーダーで売れている筈だが、オンラインで見つかるのは大半が SEO のことしか考えていないコピペで綴られたポエムだとか、三流ビジネスマンが note や cakes などに公表している中学レベルの読書感想文だとか、新聞サイトのありきたりな書評だとか、アマゾンを始めとする EC サイトの幼稚なレビューといった、夥しい数のクズだ。要するに、何人が実際に手にとって眺めたのかは知らないが、大半は読んでいないし、読めてもいないし、恐らくはその成果を自分自身の思考なり生き方に当てはめたり文章としてまとめたりする〈実務〉(こんなことを、いちいち「~する努力」などと言う必要はない。習慣さえできてしまえば、こんなことは外出から帰宅した際に手を洗うていどのことでしかない)すら何人ができているのやらと思わざるをえない。こういう、〈消費〉の積み重ねで読み手のそれぞれに何らかの影響が蓄積して世の中が〈良くなっていく〉というのは、願望にはなるのかもしれないが、しょせんは妄想にすぎない。こういう冷徹な(とは、僕はぜんぜん思っていないのだが)事実を学術研究者はしっかり表明するべきだろうし、最低でも高等教育を受ける人間においては教養課程で共有するべきだろうと思う。

乱読や多読で〈人として成長する〉などというのは、いつ頃から言われたのか知らないが、恐らく認知科学的にも社会科学的にも根拠のないデタラメである。出版業界の巧妙で、無自覚な学者や物書きも巻き込んだ長期間にわたるプロパガンダであるかどうかは分からないにしても、こういう何の論証も実証もないタワゴトが延々と何百年も多くの人々に当たり前のような判断基準として不問とされてきているのは、或る意味では驚くべきことだ。そして、しょせんは多読による〈ギョーカイ事情の情報量〉だけでものを書いているような学者や物書きが大半を占めるせいで、この程度の(恐らくは)事実をたいていは指摘しようとしないのだから、こういう状況で「哲学」を語ったり「哲学」を志すとはどういうことだろうかと考えずにはいられない。

もちろん、このようなことを表明したり、著書に綴っている人は僅かにいる。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook