Scribble at 2020-12-22 16:01:38 Last modified: 2020-12-22 16:03:47
もちろん僕らのような者がかような些事にいちいちコメントなどするものではないが、得てしてこういうスタンスをアメリカの分析哲学者(というかアメリカの学者全般と言ってもいい)によくあるフランクなノリと混同する素人が多いようなので、念のため書いておこうと思う。これはあくまでも戸田山さんのスタイルだし、もちろん是非を言うような類のことでもなければ、わざわざ他人に見せるのもどうかと思うし、これをあたかも《新しい哲学アウトリーチ》のように持て囃す出版社もどうかしてると思うけれど、どのみち「哲学」(と世間的に呼ばれている営為)とは何の関係もないし、何度も繰り返しているように、社会科学的なスケールで言っても有意な効果などない。
簡単に言うと、欧米で哲学に携わっている人々の多くは、一方では色々な論点にかかわる偏執者だのカルトだの、観念のために銃を持ち歩くような多くの異常者に相対しており、他方では伝統的なキリスト教などの信者や権威とも相対している。そういう、思想だろうと宗教だろうと一定の緊張関係があったうえでアウトリーチなり通俗的な活動をしている。よって、たとえばニコラス・レッシャーの「政治力」だのマーサ・ヌスバウムの「パフォーマンス」だのを(彼の地での事情を無視して)揶揄する人もいるし、他にも数々の出来損ない分析哲学やスノッブ形而上学(ワインで知覚の哲学を語る連中とか、ドーナツの穴がどうしたという類の概念的な暇潰しで小銭を稼いでいる連中)とも言える著作を送り出す、言わば《哲学的一発屋》たち(チャーマーズやノーブがそういう、ただの《キーワード発案者》にすぎないと言いうる説得力ある議論を見た試しがない)が日本のカウンターパートと言える人々と(今度は逆に我が国での事情を無視して)同じように見えてしまうのも無理はない。なにせ、こちらアジアの辺境国家ではかような事情があろうとなかろうと《ネタ》になることこそ正義だという、広告代理店的なパフォーマンスに自意識を蝕まれたまま他人に大学で哲学を講じる馬鹿が山のようにいるのだ。