Scribble at 2020-12-15 10:40:43 Last modified: 2020-12-15 14:23:15

諸子百家の時代について、「古代中国哲学」という表現を使う人がいる。心情として、「古代」の中国なりアジアにも「哲学」があったと言いたくなるのは分かるし、もちろん概念としての《哲学》はギリシア人だけのものでもなければ、恐らく或る星に生息する二足歩行の変てこなサルだけのものだとも限らない。しかし、そういうスケールなり概念としての《哲学》を理解していない人々に、いきなり「哲学」という言葉を使うのは、単なるプロパガンダや「ロゴロジー」(言葉による牽制や印象操作。森常治氏が使った表現だが、殆ど普及しておらず、「ロゴ・マークのデザイン」という別の意味で使われている事例もある)というものであろう。却ってアジアにも欧米と同じく《いっぱしの哲学》があったのだという、コンプレックス丸出しで学識のないナショナリストの虚勢にも見える。

現在、掃いて捨てるような駄本をバラ撒いて小遣い稼ぎしているような通俗物書きや無能なプロパーなど哲学には不要であることを実証するため、そろそろ何か書いておこうと準備を始めている。上記で述べた通り、《哲学》の概念は(少なくとも僕の理解ないし定義では、というか哲学と呼ばれる営為はヒトが生理的に行う反射運動でもなければ必然的な行為でもないのだから、こういう事に個人や共同体としての理解や定義に依らない客観的な概念などあるわけもないが)生物としてのヒトがそれをせざるを得ないような振る舞いや生き方として追い込まれてやっていることや、生活に余裕ができたための暇潰しとしてヒトがやり始めたことでもない。そしてそれゆえ、古代の或る地域で或る人物が天啓のような偶然や天才的な能力を授かって《創始した》ようなものではないだろう。ヒトが生きて何事かに悩んだり、あるいは何事かを望んだりした末に、それぞれで、あるいは家族や知り合いどうしで相談したり意見を出し合ってゆくうちに培われてきた知恵や習慣が元になっていると思う。そして、そういうところから説明することによって、思想や哲学には一定の説得力もあるし、説明としての自然な理解も期待できる。何も誰かに「哲学」ではなく概念としての《哲学》を説明するにあたっては、辰巳出版の漫画雑誌かと思うような女子高生のイラストを表紙や挿絵にしたり、でたらめな超訳や要約で「無教養な」人々に向けた文章を書いたり、格闘ゲームまがいの論争史として描いたり、勉強不足も甚だしい雑な理解を大河ドラマ風の世界史として書き並べたりする必要などないのだ。

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