Scribble at 2020-12-14 09:13:53 Last modified: unmodified

“闘将”と呼ばれプロ野球の選手、監督として活躍した星野仙一さんが倉敷商時代に甲子園出場の夢を砕かれるなど数々の野球ドラマの舞台となった「米子市営湊山球場」跡(鳥取県米子市)が国史跡に追加指定されることが決まった。球場跡がある場所はかつての米子城三の丸で、米子城跡の一部としての登録だ。同地は明治・大正期には監獄として利用されたこともあった。城から監獄、そして球場-。数奇な歴史を刻んだ地は約150年の歳月を経て再び城へと回帰する。

闘将が甲子園を阻まれた地 歴史の変遷経て国史跡の城跡へ

本文を読まないと野球場が史跡になるかのような誤解を生じやすい。現在は米子城跡となっている場所なので、過去には野球場があった場所も史跡に指定される区画の一部に含まれるということであり、野球場跡がどのていど含まれるのかは分からない。1平方メートルしか含まれていなくても、こういう記事が書けてしまうのだから、もう少し正確な内容を知りたいものだ。

そこで、米子市のページを探すと、https://www.city.yonago.lg.jp/31005.htm というページに「長年米子市民のスポーツの場として親しまれてきた湊山球場ですが、米子城跡の三の丸に位置し、城と城下町を区分する内堀の内側にあり、家老屋敷や米蔵などがあった所で、米子城跡の全体像を理解する上で重要な場所です。このたび、『史跡米子城跡保存活用計画』『史跡米子城跡整備基本計画』の策定をふまえ、湊山球場敷地部分の史跡追加指定と整備を進めるため、球場としての役目を終え、新たに『米子城跡三の丸広場』として生まれ変わることとなりました。」とあった。これなら野球場跡も史跡の範囲に収まっていて、野球場だった場所が国の史跡になったと明快に言える。

それはそうと、今回のように広場なり駐車場として再利用されるなら野球場の跡も幾らか残ると思うのだが、街中のグラウンドや野球場だと整地された後に新しい建築物ができることが多く、近代考古学の対象としては発掘が難しくなる。もちろん、その代わりに近代以降の建築物では多くの場合に資料として設計図や写真が残るため、発掘できなくなる不足を補う情報はあろう。ただ、考古学の基本は現地に訪れて周囲を歩くことにある。これだけ言っても、安っぽい刑事ドラマで定年に近いロートルが口にするセリフのようにしか見えないと思うが、当時とは周辺の環境が違っているという幾つもの事実を差し引いたとしても、日照時間や風の吹き方や見晴らし、あるいは他の集落とか当時のランドマークとの距離感など、実際に歩いてみないと着眼点として思いついたり、あるいは感覚としてつかめないこともある。

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