Scribble at 2020-12-08 16:40:31 Last modified: unmodified
同じ議論から、更に進んでみる。上記の論点は、別の脈絡に繋ぎ合わせると multiple realizability の論点に行き着くだろう。我々が自分で《意識する》ということと《同じだと把握しうる》ような別の物理的条件をもつプロセスがありうるなら、我々の意識というプロセスなり状態と《何らかの点で同等》としうる他の物理的なプロセスがあり、それらが(どういう意味でか)同等であるとする基準なり特徴を multiple realizability として特定できるかもしれないからだ。
しかし、ここには二つの可能性がある。一つは、物理的に異なる素材で意識を再現しうる可能性であり、もう一つは物理的に異なるプロセスが意識と同等になりうる可能性である。前者は SF 的な比喩が大量に氾濫しているので、分かりやすいだろう。いわく、意識をそなえた(それがどういう意味なのか、言っている人間が本当に分かっているのかどうかは非常に怪しいものだが)システムとか、自意識をもつロボットとしてお馴染みだ。だが multiple realizability は、細胞とシリコンの区別だけで論じてよい概念ではないのであり、可能性としては細胞と細胞であっても論じうる。つまり、或る匂いを嗅ぐというプロセスと、或る音を聴くというプロセスが同等でありうる可能性の議論でもなければならないのであって、僕がいまここにいて何事かをしているという自意識が、僕がいまここでしかじかの状態にあるということとが、何らかの点で同等であり realizable でありうるという可能性も議論するべきだ。
前者の multiple realizability は、脳で起きている事象を別の素材でエミュレートするという話に帰着することが多い。よって、肉体としての脳で起きることを半田付けされた部品の集積で実行した結果を同じように引き出せば、意識と同じ何らかの結果が起きるかもしれないという、はっきり言えば脳神経細胞等の電気化学的な反応の《結果》が意識であるという論点先取になってしまっている。他方、multiple realizability という概念に後者の脈絡を持ち込むと、そのような論点先取に陥らなくとも議論を進められる。なぜなら、異なるプロセスどうしを比較可能にする基準があるかもしれないと想定すれば、逆に同じ物理的な条件であっても同等かどうかを疑えるのだから、更に精密な議論ができるからである。つまり、「意識している」という表現でたいていの場合に都合よく individualized されているプロセスにどういう根拠があるのかを言えない限り、果たしてあなたが自意識だと思っている現象なり経験の《どこからどこまでが》自意識と言いうる何事かに当たるのか、あなた自身も分かっていないではないかという議論も可能となる(もちろん、だからと言って昨今の通俗本が大声で喚いているような「意識は錯覚だ」という大宣伝に肩を貸す意図はない)。