Scribble at 2020-12-06 14:25:07 Last modified: 2020-12-08 16:08:14

僕はしばしば cognitive closure を支持していると表明しているのだが、コリン・マッギンが言うような、何か特別でヒトには認知不能な自然の特性を仮定しているわけではない。現実に我々が手にしている科学の方法とか実績は限定的だし未熟ですらあり、そして我々が心や意識を《理解する》とか《知る》という achievement の目標設定そのものに偏向や誤謬が含まれている可能性もあろう。しかし、マッギンが cognitive closure に込めた意味合いほどには原理的に不可能な achievement なのかどうかも未確定なのである。よって、目標設定についての(認識論によるのであれ、あるいは存在論によるのであれ)誤謬が排除不能であるとか、我々の手にする知的成果に限界があるということは、ただの事実を述べているだけにすぎない。僕が言う cognitive closure は、端的に言って常識的な範囲での事実を指摘しているだけのことなのだ。

また、哲学として設定する achivement に原理的な思考として到達不能であるとしても、《実務》あるいは《生活》として問題が生じない段階に達してしまえば、そもそも問題ではなくなってしまう可能性だってある。たとえば、或る病気に罹患するリスクがどれほど残っていても、よほど特別な体質だったり絶望的な条件が重ならない限りは、飲み薬を服用するだけで致命的な状況へ陥らなくなるなら、その病気にかかるリスクがゼロにはならないとしても、そういう病気について不安を感じる人は殆どいなくなる。AIDS は薬で完治するわけではないが、いまでは月額の薬代(ジェネリック)が4,000円ていどで発症を抑えられる病気となり、死ぬのを待つだけという深刻な病気ではなくなっている。当然だが、それでも更に根治するための薬や治療方法の研究は続いているし、学術研究とはそういう achievement 設定をするものだろう。仮に HIV ウイルスだけを死滅させるような薬が開発されたとしても、それで《治った》ことになるのかと問うて、achivement 設定そのものを疑う人だっていてもいい。また、生命倫理学や医療倫理学の観点からは、治ったならそれで《いい》のかとすら問える筈である。

ともかく、僕は個人や集団あるいはヒトという特定の条件で生きている生物種の認知能力という観点から、現実的で生理的・物理的な制約とか有限性の話をしているだけである。そういう限度の内側から未知の領域があると端的に指摘しているだけのことであり、このこと自体に疑問を感じたり反論できる者は、自分の知ることだけが《すべて》だと思い込んでしまうような人を除けば、ほぼいないだろう(自己欺瞞や錯覚、あるいは何らかの精神障害をアノマリーとして問答無用に斥けて《よい》かどうかは一概に言えないが、そういう人々の意見は「反論」として考察に反映させる類のものではなかろう)。それから、「未知の領域」などと物象化してしまっているが、必ずしも特定の条件で設定された、同じ基準や目的を共有する境界線の外側を意味するわけではない。それだと、想定内の限界を大阪府と京都府の県境みたいに指し示せることになるが、そのような限界が同じ視野の範囲にあるのかどうかすらヒトには認知できないかもしれないからこそ、マッギンが言うような cognitive closure の議論も成立するのだ。

なお、マッギンの議論で cognitive closure が導入されるまでのポイントとして重要なのは、『意識の〈神秘〉は解明できるか』で冒頭から第2章にかけて何度も繰り返して語られているように、《意識すること》と《意識について**すること》は根本的に違うのだということである。これは、英語のありふれた言い回しを使うなら、犬と犬の尻尾くらい違う。そして、「**」として特定の言葉を入れていないのは、ここに「理解」とか「思考」といった、「心的」とされるような能動的な言葉が入るなら、どれでもよいからである。では仮に、かなり劇的な事例を設定してみよう。人類が何らかの特別な測定機器やユーザ・インターフェイス機器を発明して、脳で起きている特定の反応を自分自身で体験できるようになったとする。つまり、赤い色の何かを見ているときに脳で生じている反応を、そのまま何らかの信号のパターンとして体験できる仕組みが開発されたとするわけだ。あなたは、目で何か赤い物体を眺めているわけだが、それと同時に脳で起きているプロセスを知覚できる(それは視覚的に眺める映像とは限らず、一連の音かもしれないし、次々と起きる匂いかもしれない)機器が埋め込まれていて、脳の反応パターンを体験できる。赤い何かを見ているあいだに反応する視神経細胞や脳神経細胞の全ての反応に応じた信号プロセスを、あなたは同時に感じられるのだ。しかし、その反応パターンを体感するということと、赤い物体を眺めることとが《同じ》であるとはどういうことなのか、あなたには理解できるだろうか。もちろん、一方が起きると他方も似たような一定のプロセスが起きているだろう。赤い何かを見たときには信号のパターンとして似たことが生じるし、或る信号のパターンが起きていれば赤い何かがあると言えるに違いない。しかし、それらが《同じ》であると考えるとか理解するとか信じるというのは、どういうことを指しているのだろう。その場合も、「理解する」という信号パターンと照合しつつ、どうなれば自分がそれらを《同じ》だと理解したことになるのかを調べる必要があるのだろうか。そして、その妥当さを、今度は納得するという信号パターンとも照合しなくてはいけないのか・・・果たして、そのような手続きが僕らの抱いている問いを解決するだろうか。とてもそうとは思えない、というのがマッギンの着想の一つだろうと思う。そのような機器を使って視神経などのプロセスを測定している時点で、もうそれは赤い色の何かを見ているということとは別のことなのである。そして、ヒトが自身の認知能力の範囲内で意識《について》理解したり考えることもまた、意識することとは別のことなのだ。

[追記: 2020-12-07] 同じ set-up となる議論は、実際にマッギンが cognitive closure について説明している第2章でも展開されている。やや回りくどい書き方をしているように読めるが、この箇所で持ち出されている「特性 C*(some property of the brain, p.48)」なる概念を仮定しても、それが或る仕方で測定・記述された事実のことだと同定すること、それが或る仕方で起きている私の意識的な一連の出来事のことだと同定すること、これらの二つの同定はそれぞれ別の事柄であり、僕ら自身が意識しているという事実と、僕らの脳について何かが測定され観察され記録されたという事実とは、あいかわらず犬と犬の尻尾くらい違う。結局、「~することについて経験すること」と、「~すること」は、どこまで行っても同じことではない。「燃える」と日本語で紙に書いたからといって、その文字に触ると火傷をするわけではない。

とは言え、僕はマッギンがこうした幾つかの事例や議論を並べて、原理的に不可能だと主張することにはにわかに同意しかねる。僕らの経験している意識的な一連の出来事と(何らかの意味で)《同等な》結果を引き起こす VR ソフトなり機器が登場して悪いわけがないとも思うからだ。つまり、僕はマッギンが議論の下に敷いている有限性という概念は支持するのだが、マッギンはそこから何が原理的に可能で何が原理的に不可能であるかを、ヒトの認知能力やその成果である科学や理論という道具を勝手に過小評価しているように思うのだ。よって、僕が支持する cognitive closure というのは、もちろんヒトの認知能力や成果が有限であるほかにないという事実(これは理論でも仮説でもなく、単なる事実だ。ヒトやヒトの集団について「永遠」とか「無限」などという概念や言葉を使うのは、現行の我々の手持ちの知識においては、全て例外なく文学的な修辞にすぎない)を強調するだけではなく、その closure がどういう意味やどういう点で限界をもつのかという条件についても、われわれは確たることを知らないという事実も強調する。しかし、「ヒトは永遠に有限の能力しかもたない(僕には真理だと思えるが)」と断言する強い根拠もないのであるから(たぶんないのだろう)、もしかするとヒトは遠い将来に閉じた宇宙や次元を SF 的なテクノロジーで乗り越えたり、無限の力(何らかの信仰をもつかどうかにかかわらず、僕には概念としてすら理解不能だが)をもつかもしれない。そういう可能性を否定しないという点ではマッギンと異なる。ただ、僕にはこういう議論の方が「神秘主義」や「オカルト」だと見做されかねないように思うのだが。

[追記: 2020-12-07] ところで、ここからさらに進んで、そもそも意識するということの内観と、意識についての測定や記述とが、何らかの意味で《一致する》とか、どちらからどちらかの何事かを証拠立てたり説明するという関係が、我々の何にとって必要なのかを反省してみる必要があるだろう。熱いと感じることが「熱い」と書くことや「熱い!」と叫ぶことと《同じ》ではないのは、もう通俗本などで色々な下らない漫画やイラストを使うまでもないだろうし、その《同じ》とはどういうことなのかについて、そもそも基準とか判断の根拠を議論の余地なく展開できた事例など、実は存在しない。そして、心身問題なりハード・プロブレムが "hard" であるというのは、まさにそのことを指している。だが、そもそもどうして熱いと感じることが、何かの文章とか、あるいはそれを見た誰かの認知処理(ないし、その結果として他人の意識的な作用に生じる何事か)に対して、一致なり、あるいはもう少し基準を緩めて一定の規則性なりという関係を《もたなくてはいけないのか》。それが成立しないと意志の疎通ができないというわけでもあるまい。実際、我々は誰一人として意識することと意識することについての物理的な条件とがどういう関係にあるかを今のところ知らないが、だからといって人類が何千年もの集団催眠に陥っていると主張する社会言語学者などいまい。いや、ポストモダン派と呼べるような人々はそう主張しうるかもしれないが、だからといって何だというのか。僕がマッギンの cognitive closure に一部で反対している理由とも関係するのだが、人類なりヒトという生物の認知能力に所与の限界があるという事実を指摘するだけならまだしても、人が不可避的にそういうものでしかありえないと更に進んで指摘したからといって、新しく何かを言ったことにはならない。そして、それが原理的にそうであると言ったとしても、その原理的な限界を特定するための条件が生物学や生理学として把握したり記述できない以上、そのような条件が何か別の環境なり条件で変わることまで否定することもできないのである。

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