Scribble at 2020-12-03 12:07:02 Last modified: 2020-12-03 12:08:41
この場合は、従来の脈絡で言う自然系と人文・社会系との対比を持ち出しているわけではなく、公衆衛生学や疫学や微細胞生物学や感染症学の中で起きている衝突の話をしている。僕のように、外食産業や観光業なんて消えてなくなっても痛くもかゆくもない人間にしてみれば、いとも簡単に「なんでグズグズと交渉や会議を続けているのか。さっさと都市圏をロックダウンして、キャバクラやワタミなんて閉めてしまえ」と言いたくもなるわけだし、慢性的な病気を本人や肉親が抱えている人は(僕の父親も喫煙者だし80歳を超えており、そして僕自身も50歳を超えていて元喫煙者だから、仮に罹患すれば若者に比べてそれなりの高いリスクはあろう)、必要なければ外出なんて誰もしないし、仕事の打ち合わせも Zoom や Teams が当たり前となっている。いまになってロックダウンしている北欧諸国など、それこそつい昨年までは性教育だクリエーティブだベーシックインカムの実験だ IKEA のサメだと愚かな都内の出版・マスコミ・大学関係者にチヤホヤされていたのが、国民の一部ましてや高齢者を切り捨てるようなノーガード戦法を取り始めてからは評価が一時期は(というか今でも)正反対となって、特に Twitter で非難されている様子では crazy nation 扱いになってしまった感がある。
しかし、上記のとおり様々な対策を同時に実行している最中では、何が何と関連性が強いのかという独立した影響関係を測定しづらくなるため、何の関係もない対策が軽率な連想とか安易な願望だけで関連付けられて、効果があるだのないのと議論されたり、そもそも議論に組み込まれたりしている可能性がある。そして、こと自分を含めた生命や健康の話題ともなると、これまで東日本大震災やら阪神淡路大震災といった自然災害に伴う数々の課題や困難に関わってきた事情などから、大規模な災害に際して、あの時こうしていれば良かったという後悔とともに、まるで「こう」することしか選択肢が残っていないかのような強い執念が残る人もいることだろう。しかし、選択肢が「こう」することしかないかどうかは、やはり素人に断定できるものでもなければ、もしかすると公衆衛生や医学のプロパーでも断定できるものではないかもしれない。
もちろん、このような態度を現今の官僚や政府の(恐らくは観光族や経産族との利害関係、それから決断の責任を取って保障の財源を用意したくないという)優柔不断を容認する理由としてはいけないし、特定の決断にコミットしない、役立たずで卑怯な相対主義者の正当化にも使うべきではなかろう。どのみち政治とは決断であり、決断とはどういう美辞麗句で説明しようと特定の何事かを脇へ置いて他方を優先することなのであるから、必ず誰かには恨まれるものだ。それは企業の役職やバック・オフィス部署の人間とて同じことである。