Scribble at 2020-12-02 13:24:09 Last modified: 2020-12-02 16:26:54

大森さんの著作を読んでいて感心することがあるのは、1のように(数学的な概念や記号の操作という体系の中では)明瞭な何かであろうと、あるいは円周率のように数字として書き尽くせない何かであろうと、あるいは任意の実数でもよいのだが、そういう《何か》が図像的な点として表象されること自体が、この宇宙の理解にとって必然的でもなければ必要でもないと言っているように思えることだ。それは、彼がよく通俗的な本で持ち出している「ゼノンのパラドクス」への批判に表れているとおり、飛んでいる最中の《瞬間》における矢などというものは想像にすぎないのであって、この世界に実在するのは或るところから或るところへ向かって飛ぶというプロセスなり事実だけである。更に、そういうプロセスなり事実をそれとして individualize することも、たいていはヒトという生物がもつ認知機能の範囲でのみ妥当である。それを1秒ごとに軌跡の上で停止させた図像なりアニメのセル画みたいなものを持ち出したところで、アニメーションが人の錯覚を利用する表現技法であるのと同じく、x 秒後に特定の位置にある矢もまた、実世界におけるセル画のような錯覚でしかない。実際、われわれはそういう矢を本当には計測したり撮影はできないし、また飛んでいる矢をそのようなものとして飛行中のプロセスから取り出して博物館に展示したりできないわけである。

無限についても、僕は村上さんが言ったとされる「微分の言い抜け」という理解には同意しかねると何日か前に書いたわけだが、しかしだからといって数学者が(もちろん数学として精密に議論できる範囲では、《或るていどは》信頼できるとしても)無限の概念に関して唯一の権威であったり着想の源泉であるという保証はないとも指摘した(当然、われわれ哲学者もまた同じである)。そして、数学が無限や点についての概念的な誤魔化しをしているという指摘は当たらないと思いつつ、無限なり実数の概念が《めっちゃ一杯ある点の集合》にすぎないとすれば、それはダメだろうという想定も同時にもっている。よって、個々人としては彼らが言うところの「言い抜け」に相当する程度の低い理解しかせずに数学者を名乗っている者はいるかもしれないが、しかしそれは事の本質とは関係がない。われわれは哲学をしているわけであり、数学者 A が数とか無限をどう考えているかという些事(それがたとえタオやシェラハの考えることだとしても)に拘泥していてはいけない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook