Scribble at 2020-11-28 00:13:33 Last modified: unmodified
語源に訴えて言葉なり概念を定義しようとする議論は、簡単に言えば自然の規則性(と見做される特徴)とは無関係なことを論じるときにだけ妥当だと思う。例えば、「『原子』を意味する "Atom" という言葉はギリシア語で『分割できないもの』を意味する "ἄτομος" という言葉から派生している」と定義したからといって、そう宣言しただけで「原子」なるものを何らかの自然現象なり物体として特定したことにはならないし、ましてやその実在を証明したことにもならない。このような指摘が後知恵によるものだと反論する人はいるかもしれないが、この指摘は「原子」という言葉が生まれた当時にでも可能だった筈であり、実際にデモクリトスの使った言葉についてであろうと、更に下った時代の科学者が使った言葉についてであろうと、強い説得力をもっていたわけではなかった。そして、それを当時の人々の無知蒙昧ゆえだと言うならば、それこそが後知恵というものなのである。現代の科学が教える事柄を数百年後の誰かが「無知蒙昧ゆえにそんなことを信じていた」と言い得ないという保証はない。
では、分割しえないという意味の「原子」について自然科学として真面目に《そういう意味で》扱うことが既に有益ではないという事実から、「原子」という言葉を使ったり、ましてや学校で教えるのは馬鹿げているのだろうか。そうとは言えない。物事の理解には順序や段階というものがあり、いかにガウスであろうと揺り籠の中で代数の問題が解けたわけがないのである(もちろん、そこからの理解の進度が常人を遥かに上回っていたのは確かだと思うが、それは話の本質ではない)。また、自然の規則性に準じていなければ言葉は意味を為さないのかと言えば、そんなことはあるまい。人の大多数の発言はたいてい馬鹿げているが、それでも人が思考したり発話行為を実行するという認知的・生理的なはたらきは、全て自然の規則性に従っているのである。かつてフレーゲだったかフッセルだったかが正しく指摘したように、誤謬を引き起こす心理的な機序というものも自然の規則性に正確にしたがっており、人は真のランダムによってではなく規則の適応可能な範囲で間違うのだ。
すると、supervenience という関係があらゆる非物理的な特性や関係に成立するわけではないという、かなりありふれた結論へと人を導くように思える。それゆえ、《それゆえ》人文学や社会科学にも一定の独自の意義があるのだという議論へは、あと一歩だろう。しかし、ここにも何らかの制約なり条件なり限界が必要ではないのか。確かに一般論としてそう言い得たとしても、多くの性質や関係については、自然の規則性と無関係に定義したり議論してよいとは思えない。