Scribble at 2020-11-26 16:52:27 Last modified: 2020-11-26 16:56:02

科学であれ哲学であれ、あるいはビジネスや人の生き方に至る殆どの活動は、平たく言えばチャレンジであろう。そして、学術研究や思想の展開については、僕は当サイトで「リサーチ・プログラム」という新科学哲学の著作でお馴染みとなった概念を使っている。ただし、しばしば誤解する人がいるようだが、僕はこの言葉にパズル解きだの piecemeal work(実質的には日本語で言う「内職」という語感がある)だのと侮蔑的なニュアンスを込めていない。それは、先の落書きでも述べたように、僕は寧ろ「革命」などという後知恵のフレーズ(もっと言えば、知的・学術的な脈絡での離乳食)こそ、哲学者が扱うべき《概念》に値しないと評価しているからだ。わざわざ急いで注釈するまでもないことだが、僕は栄養学の「離乳食」という用語そのものを蔑んでいるわけではないし、大人であっても何らかの病気で離乳食しか摂取できない場合があることも知っている。

こういう前提で展開してよいなら、僕が思うに科学哲学とは科学の成果にコミットしながら展開する哲学のことだとも言える。そして、現行の科学が達成している成果、更にはその影響を無視して思弁だけで展開できる哲学がそもそもあるのか(あったのか、ありうるのか)と問うならば、竹尾門下の方であれば一度は先生から聞いたことがあると思うけれど、そういう哲学はそもそもなかったし、ありえないのである。したがって、「科学哲学」という応用学問の呼称は使っているものの、実質的には竹尾先生と同じく「哲学」と言って何も憚る必要はないわけである。ただ、僕が竹尾先生とは違って、僕は現象学や解釈学やポスト構造主義を初めとする50年くらいの間に展開されてきた思潮についても、必ずしも科学の成果を無視したり、「反科学」と呼ばれているようなアプローチを不可避的に要するわけではないと思う。確かに科学哲学のプロパーは個々の科学の具体的なテーマや論点を取り上げるので、はっきり言えば馬鹿でも自然科学の何事かについて考えていることが分かる。しかし、ベルの不等式や宇宙際タイヒミュラー理論や進化論について語っていないからといって、その人が科学の成果を軽んじているとか無視しているとか反抗しているなどと理解するのは、あまりにも軽率にすぎる。

また、科学の成果へあからさまにコミットしたり、あるいは科学の成果から生じた技術などの影響を受けずにはいられないからといって、そういう所与とすら言えるような状況で哲学することが「自然」だとか「当然」だとか、あるいは「伝統的」で「スタンダード」であるかどうかは、自明ではない。それゆえ、僕は科学哲学という研究分野を専攻し、そして上記のような理解までしてはいるものの、そういう経緯や実情が何か《哲学》として不可避であったり、哲学的な営為や思索としての本質だとは思えないのである。人がやってきたこと、そして人としてやらざるを得ないことでありながら、昨今の言い方では anthropic という条件に抵抗するべきではないかというスタンスを採る(採れる)ことも、また《哲学》としての可能性であり、あまり使いたくない表現だが魅力というものでもあろう。もちろん、それが誘惑となってしまっていては、単なる自意識に回収されてしまう。

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