Scribble at 2020-11-25 20:15:55 Last modified: 2020-11-25 20:17:31

どうも昔から、「革命」という言葉を使う心境が正確に分からないところがある。「科学革命」などとよく言うが、実際は何百年もかかって少しずつ起きたことであって、一人の人物が無から有を生み出すように成し遂げたわけでもなければ、未知で新奇な何かを急に思いついたわけでもない。そして、過去を顧みて気づく大きな変化というものの多くは、記録や栄誉として名を遺すような天才とか学者とか偉人あるいは為政者や金持ちだけが役割を担ったわけでもないのである。もちろん、だからと言って平凡な多くの人々が本質的な役割を担っていたなどと軽率なポピュリズムを主張する気などないし、隠れた偉人がいたという類の民放番組の筋書きとか陰謀論の類を語る気もない。要するに、大勢の人間がお互いにやりとりして築いたり維持したり変えたり壊す生活や文化や制度など多くの事柄は、通俗本や教科書で描かれるていどの短絡や単純化でもって理解しやすくなっている筈がないということである。どうして人類の歴史が『サピエンス全史』ていどの二冊本で描かれるていどに単純な歩みだと言えるのか。寧ろ、そのていどの短絡で理解できるとか本質的なことが分かると思い込める浅薄さや迂闊さを避けることこそ、われわれが何千年もの時間を費やして辿り着いている《歴史の教訓》というものではなかろうか。

すると、もちろん数世紀に及ぶ変化を「革命」などというジャーナリスティックでセンセーショナルな言葉で表す(敢えて言うが)愚行を避けながら、別の意味で愚行とも言いうるような、しばしば三流の社会学者が陥る些末な事柄へ拘泥した蘊蓄の羅列を「歴史」だと強弁するような真似を避けるには、どうすればいいのか。しかも、われわれの人生には限りがあるため、歴史に学ぶと言いながら歴史の勉強だけで人生を終えるわけにはいかないのだから(ちょうど、間違ったことを知ったり考えたり言いたくないという理由から認識論や論理学の勉強だけで一生を終えるようなものである。それは、哲学というよりも単なる強迫観念や自意識プレイであろう)、やはりどこかで歴史的な再構成だけでなく合理的な再構成を必要とするだろう。そこで、《本質的》ではないとして切り捨てる判断へコミットすることは、もちろん各人で自由にやっていいし、それらの是非は各人の成果によって評価するしかないのである。

そういう理由で言うのだが、「科学革命」というフレーズで語られてきた概念が何を意味するのであれ、その成果が思想史なり科学史なり哲学史において何か重大で決定的な効用をもたらしたのかと言うと、僕にはその証拠を全く挙げられない。仮に雑な意味で、それまで知識について教会が牛耳ってきた権威なり発言権を科学者や政治家が担うようになったなどと言うとしても、《哲学の問題》として、その違いがいったい何だというのか。

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