Scribble at 2020-11-23 11:46:40 Last modified: 2020-11-23 11:52:04

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This book starts from a first general observation: there are very diverse ways to frame and convey scientific knowledge in texts. It then analyzes texts on mathematics, astronomy, medicine and life sciences, produced in various parts of the globe and in different time periods, and examines the reasons behind the segmentation of texts and the consequences of such textual divisions. How can historians and philosophers of science approach this diversity, and what is at stake in dealing with it? The book addresses these questions, adopting a specific approach to do so.

Pieces and Parts in Scientific Texts (Why the Sciences of the Ancient World Matter (1))

Springer の本が1冊だけ安く販売されている事例があって、面白そうなものは買っている話を書いた。上記も、1,200円くらいで売っていたので注文した。このところ、もともとあった考古学への関心や色々な地域の歴史についての好事家的な興味だけではなく、或る程度は体系的に科学史や哲学史のスタンダードな勉強をしようと思い立って、色々と読み漁っている。ただ、先にも書いたように科学哲学を論じるにあたって、内井さんや伊勢田さんのような水準でヒューウェルらの時代から始めるのは意義のある業績だと思うのだが、更に哲学史としてスケールを別に(必ずしもスケールとして「広く」なっているかどうかは自明ではない。それは哲学や科学についての理解に依存する)とれば、メソポタミアとかシュメールといった時代、あるいは古代中国とかマヤ文明なども含めて議論してもよいのは確かである。

そもそも、僕は考古学者を志望していた中学生の頃から「先史時代 vs. 歴史時代」という対比が大嫌いである。文字として記録されたからといって、何かが確実に言える証拠にはならない。そういう記録が本当にその当時にあったことを正確に文字として伝達し、僕らに理解できる保証はないからだ。寧ろ、そういう視覚的に分かりやすい遺物が伝える事柄によって後世の理解が誘導されやすいのも事実だ。現に、いまだに「元皇族」などと称してデタラメな歴史の話を垂れ流している素人歴史家(いや、専門と称している法律学ですら何の実績があるのか疑わしいが)もいるわけで、何千年が経過しようと文字というものは人に重大な錯覚や欺瞞を引き起こす、いわば時限爆弾のようなものだ。

よって、言語によって逆に誘導されかねないというリスクを回避することも含めて、文字があろうとなかろうと関わりなく過去の出来事(とされる何か)や過去の事実なり実態(とされる何か)を歴史的に再構成するとともに、僕らの時代の制約なり条件なり要請なり目的をもって合理的に再構成して活用することが望ましいと思っている。これは「活用することが求められる」(誰に?)などという意気地のない話ではなく、僕自身が必要としているという話なので、これを正当化する責任は当然ながら僕にある。

一つの簡単な理由は、中学生にでも分かる話だ。「哲学」という言葉を使ってものを書いているからといって、その人物が《哲学を理解している》保証はないということである。よって、ギリシア語で「智を愛する」の何のと安っぽい語源的な蘊蓄を言ってみたところで、その議論が無能や錯覚に基づく出鱈目であれば、何千年前の人間が書いたものであろうと、あるいは数千年後に岩波書店から出版された5,000円を超える大著であろうと、クズはクズであり、哲学を志す者、いわんや哲学者を任ずる者は、自分自身がコミットするべきリサーチ・プログラムにおいて、そういうものを徹底的に排除したり無視するべきである。しかし、逆に言えば「哲学」という言葉を使っていなかろうと《哲学》している人はいたであろう。僕が、自然科学者の多くも実質的に《哲学》をしている場合があるという意味で科学哲学の議論として組み入れてもいいと考えるのは、それが理由でもある。あるいは翻訳の結果というバイアスはあるにしても、現代のわれわれが得た過去の遺物なり事績の理解として《哲学に相当する何事かが行われた》(もちろん、ここで「哲学」が何のことなのかは各自の責任で定義しておくべきであろう)と解釈できることがあれば、それを考察の対象に加えて悪いわけがない。今でいう「哲学」という言葉が使われていないから、***人や***文化や***文明では《哲学》という営為はなかったなどと言うのは、子供でも愚かな態度だと分かるだろう。それではまるで、生徒が「虐められた」と言っていないから当校に苛めはありませんと公言する、小学校の校長のようなものだ。

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