Scribble at 2020-11-15 21:59:14 Last modified: unmodified

フェニキアとかインダス文明の本を読んでいると、いつのまにか14、15世紀の西ヨーロッパの本に読み進んでいた。こうして見ると、やはり一口に「中世」と呼んでいる時代も政治なり商業なり貿易なり運輸なり会計なり経営なり軍事なり外交なりと、色々な面で興味深い話題がたくさん見つかる。しかし何かといえば、単純に教会の権威だの封建制だのと雑に掴んでは、この時代の様々なテーマを当人にとって興味がない話題を入れるゴミ箱へ気軽に投げ捨てたり、あるいは概念史の専門書やサーベイ論文でもアリストテレスからデカルトまで2,000年ほどを大跨ぎで飛び越えてしまうような叙述も多いわけであり、哲学史だけに限らず歴史としての興味から言ってもったいないことだと感じる。また、とりわけ presocratics という括りを敢えて考慮せずに歴史の教えるところに目を向けると、例えばエーゲ文明なりメソポタミア文明なりと比定されている時代の文化遺産から教えられることも多々あろう。もちろん、それらが現代的な脈絡での外挿として理解した何事かにすぎないという留保は必要だが、そういう合理的再構成が何事かを哲学として教えるのであれば、それを現代のわれわれが自分たち自身の脈絡で理解し尊重しつつ受け入れたり教訓にして何がいけないのかと思う。僕が、哲学研究において歴史的再構成にも比重を置くことを訴えながら、そういう《当時の脈絡》とか《当人たちの心性》といった、しょせん厳密・正確には復元不可能と思えるお化けの看板を背負って合理的再構成を拒むような態度を歴史オタクと侮蔑するのは、結局のところそれが何のために為される(べき)なのかを理解せずに自己目的化したオタク趣味的な蘊蓄の積み上げだけに拘泥する態度もまた、歴史を顧みない近視眼的な態度だと思うからだ。できるだけ厳密かつ正確に解釈したり復元しようとする研究があってもいいし、それはそれで尊重に値するが、哲学者を名乗る者のやるべきことは(それが自意識でないというのなら)、歴史的な偉人との《シンクロ》や肉体フェチ的なシンパシーを感じることなどでは断じてない。

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