Scribble at 2020-10-12 17:05:34 Last modified: 2020-10-12 20:16:58

ここ数年で書籍の値段が上がった印象を受けると書いたのだが、もちろん消費税で引き上げられたという事情もあるだろうし、国政レベルのデフレ対策が実行された結果でもあろう。それが、編集者や著者や印刷業者の所得へ反映されていれば良いのだが、そういうわけでもなさそうなのが残念ではある。もちろん、自分が使えるお金の額は大して多くならないとすると、毎月の小遣いが1万円だとして、その半分を書籍代に充てられるなら、最近の本の多くはせいぜい1冊くらいしか買えない。これもこれで残念な話だと言いうるが、しかし本が高いと文句を言う筋合いのものでもないのだろう。それらの内容がもつ価値に照らせば、たとえば何か特定の学術研究分野の基本書なり概説書が税込みで 5,000 円だとして、それを1か月で何度か読み込んで「マスターする」という成果から期待できる利得(その時点では、必ずしも明確には分からないかもしれないが)を思えば、書籍が1冊で5,000円の値段だとしても、それを読んで自分が得たり自分の何かに役立つと期待できる価値を想像すれば、5,000円が自分にとって高いか安いかは、結局のところ自分がその本をどれだけ活用し、その本からどれだけの知識を得て、そして読書から刺激されたことで自分の言動にどういう影響があったかで決まる。5,000円という正味の数字が大きいか小さいかの問題ではないし、正味の数字として考えるとしても、それは何と比較するかで変わってこよう。

かなり前に、ヒュームの Treatise の翻訳が3冊で20,000円弱だと書いたが、これを3冊だけ買って文字通り精読するなら、恐らく10年でも費やせるだろう(これが《しょせんは翻訳》であることに何らかの哀れというか諦観を感じるプロパーは多いと思うのだが、しかしそういう類の冷笑にも通ずる態度の是非は、原書を読んでいるであろう彼らプロパーが何を成果として世に問うているかによるだろう。結局、世界レベルのヒュームの研究成果を出していない人間が、しょせん翻訳を読んだところでヒュームの心情の機微は分からぬの何のと、スノッブ的なワイン論評のごときコメントをさしはさんだとしても、結局は翻訳からであろうと成果を出した人間が人類史的なスケールでは賞賛に値するのである。もちろん、学校制度に引きずられた近代の哲学において殆ど実例がないのは確かだが)。その気があるなら、バイトでもなんでもして2万円を用意して買うのも、一つの真面目なコミットメントというものであろうと思う。もちろん、それをやることで他の本や雑誌は買えなくなる人も多いだろうから、そういう人々が増えたところで出版業界の財務状況など好転するものではない。そして、そういうことにコミットしない人間の中には『日本国紀』だの、あるいは自称元皇族だのの書いた愚劣な紙屑を買い求めるものも多々いるわけであるから、社会科学的なスケールで言っても「社会が良くなる」保証などないのが皮肉な現実というものであろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook