Scribble at 2020-10-15 08:41:33 Last modified: 2020-10-21 09:26:15

The Murder of Professor Schlick paints an unforgettable portrait of the Vienna Circle and its members while weaving an enthralling narrative set against the backdrop of economic catastrophe and rising extremism in Hitler’s Europe.

The Murder of Professor Schlick: The Rise and Fall of the Vienna Circle

モーリッツ・シュリックが学生(教え子なのかどうかは知らない)に殺されたという話は、少なくとも分析哲学を専攻している人々のあいだでは有名な話だが、その詳細を調べたり叙述している著作は、恐らく皆無だと思う。そもそもシュリック自身はウィーン学団との関係で《言及》されることは多いものの、彼自身の学術研究者としての成果は大して評価されてもいないからだ。はっきり言えば、一時期のヨーロッパの或る大学で指導的な役割を果たした人物というだけのことである。よって、英語圏ですら評伝は存在しない(ドイツ語の書籍は出版されているらしい)。

何年か前から書いているように、或る種の「停滞期」という自覚が世界規模で起きていて、分析哲学は大昔から予言されていたように、スノッブどもの集まる趣味的なディベート合戦やクリシン教室のように堕落してしまったし、現象学は認知心理学に吸収されつつあるか肉体フェチどもの文壇に成り下がったし、それ以外の伝統的な古典研究は旧態依然という予定調和で推移しているし、肝心のポストモダニズムや、あるいはフランスの何とか実在論と称する素人科学哲学も構造主義やポスト構造主義の表装替えにすぎないときては、最新流行の思想や哲学を売り込もうという都内の三流編集者どものやれることと言えば、Twitter で派手な言動を繰り広げる社会学者や哲学研究者の駄本を印刷し続ける他にあるまい。

よって、多くのプロパーが既存の実情を眺めて、結局は《いつからこんなことになるべく用意されてきたのか》という来歴に興味を抱くとしても、不思議なことではあるまい。いわゆる「分析哲学史」という分野が正式に研究分野として認知されたり、専門のジャーナルが発行されるようになったことは、まったく自然なことだと思う。そして、そういう趨勢に引きずられて思想書や哲学書を手に取るアマチュアを購買層としている市場では、上記のような本が頻繁に出版されるようになっているのも理解できる。しかし、僕はこの手の「リセット」作業は思想や学説の担い手たちの人生を顧みることだけで何かが《やり直せる》とは思わない。もちろん哲学者として言うが、こういうことは「リセット」でもなんでもなく、少なくとも制度的な哲学研究者であれば《やって当然だった手続き》を丁寧に踏もうということでしかないのだ。おそらく、この場合でも歴史的再構成と合理的再構成の対比を持ち出せるとは思うのだが、ウィトゲンシュタインが同性愛者だったかどうかという「論点」が何らかの事実や解釈として(少なくとも研究者個人において)定まったからといって、そこから何が言えるかは自明ではない。しかし、自明ではないからこそ研究する価値があるとも言えるし、それゆえに思想や学説の定式化を志向する人々においても歴史的な再構成は(限度はあるが)必須の作業である。同じく、歴史的な再構成を意図する研究においても、作業仮説としての合理的な再構成という手法は(もちろん限度はあるが)必須の作業である。

シュリックをネタに同時代について描くという作業は、もちろん限定的であろうと意義のある仕事だとは思う。上記のような本が、単なる思想オタクや好事家のネタ帳にならないことを祈ろう。

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