Scribble at 2020-09-26 09:48:49 Last modified: unmodified

たまに日本でも古典の読書会の記録とかが公開されているので見せてもらうのだけど、同じように事細かくごちゃごちゃとした論点に break-down して読書したり議論するというのはいい。でも、海外の学生と君らとの違いは、海外の学生なら、それをブログなりジャーナルに投稿して公の成果にして、更に他の人と繋げていってることにある。英語をベースにしているプロパーの議論の厚みとか強さというのは、結局はそこにも理由があって、それは日本の学生なりプロパーでも或る程度はできる筈なんだよね。英語でやればもちろんのこと、日本語でやったとしても。伝統的にそれをしない、間違ってたらどうしよう症候群、いまの言い方なら、マウンティングされてしまう症候群であるかのように、或る程度は固めた文章しか表に出そうとしない。あるいは、明らかに答えがわかっていることだけ、選り好みして「質問サイト」のようなところで好きに答えて何かアウトリーチしてますといったポーズをとる。なんにしても、そういうことをやり続けたところで、社会的な地位を手にしたら5年に1本くらいしか論文を書かなくなる。そして、口を開けば「哲学というものはそう簡単に答えを出せるものではなくて云々」とか言い始める。僕には自己欺瞞の極致としか思えないな。

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