Scribble at 2020-09-18 12:49:28 Last modified: 2020-09-18 17:20:01

何か月か前のことだが、『現代思想』の量子コンピューティングを特集した issue(日本の出版業界では定期刊行物を一冊ごとに「この号は~」などと呼んでいるが、実は一般人には通じない。英語で "issue" と書くと、今度は一部の出版人に通じなくなるが、一般人で英語ができて意味を理解できる人の方が多いと思う)が出るので、暇があれば目を通してみようと書いた。さきほど仕事の帰り (*) にジュンク堂の大阪本店で、量子コンピューティングの解説書と一緒に並んでいたため、目次をざっと眺めてから件の論説に目を通してみた・・・というか、冒頭でこれはエッセイだと断定できたので、すぐに終わりの文章へ飛んでしまったのだが。なにやら日本は学術研究の条件が劣悪であり、Oxford が素晴らしいみたいなエッセイが書かれていた。そんなことは、留学経験のある日本の学者は明治時代から聞いてる話だと思うが、ここにきていよいよ予算とか体制とか色々な点で限界に近付きつつあるのかもしれない。その代償は後の世代の人々が負わされることになるので責任を感じると書かれている。そこは、『圏論の哲学』(NTT出版)という著書を出すという話があるようなので(NTT出版は Bounds of Reason しかり、方法論を統一するというアプローチの本が好きだな)、日本の大学の限界にぶち当たらなくても済むようなレベルの議論を高校生や学部生に与えるというアプローチを期待したい。(つまり、日本科学哲学会のメンバーが書くような論説を一行たりとも読むことなく、すぐに MIT や Oxford で進行しているような議論へ入っていけるくらいの self-contained なテキストを提供することだろう。まぁ、そういうレベルの本を日本の出版社が出してくれるのかとか、もっと切実な問題はあると思うが。)

もちろん、僕は彼のような人々に期待している一人だ。それに、哲学プロパー向けに圏論を講じていた人たちを DIS ってきたのだし、他にも圏論の概念や帰結の濫用を危惧して第二の「知の欺瞞」という言葉さえ使っているのだから、それなりの責任もあろう。そして、それに見合う成果を出せばいいだけのことだ。要は学者は学術研究の成果として公に高く認められるレベルの業績(いまや母国語でこっそり書いた論文が100年後に外国人に再発見されて云々といったサクセス・ストーリーはない)がすべてであり、弟子が何人とか、何冊の本を出したとか、筑摩書房や講談社から「知の巨人」などと呼ばれたとか、文科省の何とか委員になったとか、産経新聞の書評委員だとか、修士論文を大手の出版社から本として出してもらったとか、そんな些事些細些末なことはどうでもいい。まともな業績さえ出せば、いくらでも称賛するし他人にすら推薦したい。

(*) 実質、7分しか作業していないのだが、その7分でやれる作業を他にできる人間がいないのだから、しょうがない。これは技術的な知識の量とかタイピングの速さだけではなく、社内の機器の配置や設定を知っているという事情にもよるので、たとえ任天堂とかで伝説になっている驚くようなスキルの技術者でも、同じ時間で作業を終えられる保証はない。それが、僕が現職で15年近くも distinguished and lead developer で居続けている理由だ。

ちなみに雑な感想だとは思うが、ロジックや哲学では明らかに業績を残しているヒラリー・プトナムだって、モデル理論なりロジック全般を使って、それこそダメットやタガートみたいな野心的な本、たとえば形而上学なり科学哲学の議論をロジックにもとづくアプローチで整理しなおすような本を書けた筈なんだけど、結局はしなかった。それがどうしてなのかという疑問はあるよね。(こういう引っ掛かりを「疑問がある」と書くことが多いのだが、別に否定する意図が最初からあるわけではないので、他の言葉を探している。「問い」という言葉もなんだか違和感がある。)もちろん、彼がそもそも grand theorist ではなかったからかもしれないが。

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