Scribble at 2020-09-13 19:39:55 Last modified: 2020-09-15 23:46:12

MD で書くと誤解を招くので、哲学とは関係ない内容だがこちらで書いておく。

学問としての経営学に関心をもっていて、実際にそういう学科を学んだり会社で経営や管理職の実務に携わっているなら、ふつうは経営者の自叙伝なんて読まないよねぇ(僕が在籍する会社の代表も自叙伝に近い著作があるのだが、それは敢えて眼中にない)。読むとしても、それは本当に暇潰しだったり、あるいは経営に関心をもってますというポーズのために社内で読んで見せたりするくらいだろう。

経営者の自叙伝なんて読む価値がないのは、第一に本当のことが書いてあるかどうかという点で疑わしいし、第二に本当のことが一部しか書いてないと思えるし(不都合な事実が省略されていても、必ずしも嘘とは言えない場合がある)、第三に大半の経営者は経営学者ではないから自分のことを分析したり評価するまともな、そして正確な理論とか基準をもっていないし、第四に自分自身で書いていないことも多々あるので、美しくドラマティックなストーリーに仕上げられた原稿を事実に照らして校正しているかどうかもわからないからだ。

当人が亡くなった後で出版される評伝であっても、客観性とか利害関係に中立な内容となる保証はない。利害関係を持つ人々が、まだ現世に残っていて強力な牽制材料を持っている可能性があるからだ。遺族とか、あるいは当人がいた企業とか、それから《色々なこと》で便宜を図っていた政治家とか官僚とか、それから裏の世界の人間とかだ。

よって、まともな経営学の研究書や教科書を読めばすぐにわかるとおり、経営学者は経営者の自叙伝なんて参考にもしないし、敢えて読んですらいないだろう。もしかすると著作の冒頭にエピグラフとして経営者の自叙伝から引用する人はいるかもしれないが、それはふつうプロパーが読むと失笑しか集めないだろう。『純粋理性批判』の厳密な解釈を展開する研究書の冒頭で、早稲田の某有力教授とやらの通俗書から一節を引用するようなものだ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook