Scribble at 2020-09-09 07:53:42 Last modified: 2020-09-09 07:58:16

いまでは、Hatch の『組織論』なんてビジネス書にすら「言語論的展開」だの「脱構築」だのという用語が並ぶようになり、事程左様に哲学や社会思想の知見や概念が多くの分野に普及しつつある。もちろん、プロパーから見てそれらの大半が付け焼刃の理解による《知的ふりかけ》のようなものにとどまるのは事実だが、場合によっては会計学や都市計画論や経済学ではそれなりの正当化をもつ権威の源泉になってしまっているようだ。僕が修士の頃に見つけた論説では、都市計画の思想史として論理実証主義を最前線の哲学として紹介する記述があり、読みながら列車の中で声を上げて笑ってしまったほどの稚拙な議論が展開されていたものだが(もちろん多くの方はご存じのとおり、昔から建築関連では社会思想や哲学の安易な導入が繰り返されており、国内でも80年代には多くの建築家が勝手気儘な素人哲学のエッセイを「思想書」として都内の初心な学生にばら撒いていたものだった)、そういう人の生活に何のかかわりもない紙屑が流布するくらいはともかくとして、まともなビジネス書に軽はずみな応用として哲学が導入されると、それはそれで現実の会社員にも影響がある。

もちろん、僕らは《会社員でもある哲学者》として、そういう迂闊な応用をそれぞれの活動場所で牽制する役割があると思っていて、僕も実際に役員らが社内報のメルマガに出鱈目なギリシア哲学の解釈を(もちろん、例のアドラーだかマズローだか、どちらも二流の心理学者というか、いまでは心理学者だったかどうかすら疑われているわけだが、それらお好きな人物の通俗本を手掛けている著者からの引き写しとして)書いているときに、公にではなく私信として指摘したりしている。当然、多くの人々は僕らのように博士課程で哲学を専攻していた者よりも、ナウで、セレブで、大会社から著作を出版している偉い人の言うことが正しいと信じる傾向があり、それをいちいちクリシンでどうこう言ってみたところで、たいていの凡人なんてクリシンは相手の揚げ足をとるためにあって(プロパーの大半が自分の奉じる認識論の帰結を自分自身に適用することなど夢にも想像しないのと同じで)、自分自身に適用するために使うことなど想定しないため、おおむね聞き流されるものである。ただ、異議を申し立てられることがあるという記憶だけは残るだろうから、迂闊に学問の成果をひけらかすと面倒臭いことになるという程度の効用はあろう。

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