Scribble at 2020-09-03 07:43:13 Last modified: 2020-09-03 08:55:54
死について展開される議論の多くは、プロパーが手掛けるものであればなおさら、通り一辺倒のルーチン・ワークみたいにエピクロスの議論を取り上げるものらしい。まるでチャート式の単元をこなしていく受験生さながらの様子で、哲学的な思索の真似事をしている自覚すらないのだから呆れるばかりだが、凡人として所定の業績を出さなくてはならない以上、今世紀において大学教員なるものの処世術としてはわれわれも看過せざるをえないのだろう。
確かに、死について論じる際のテンプレと見做されるとおり、エピクロスの議論は一見すると強力である。煎じ詰めてしまえば、「死ねば怖いもへったくれもない」という身も蓋もない話だからだ。しかしながら、これも当サイトの論考や MarkupDancing の落書きで指摘した通り、この議論は死の恐れ《について》論じたり判断する時点をごまかしている。つまり、僕らが現に死を恐れる時点と、恐れるもへったくれもないと言える時点とをズラしており、しかも恐れるもへったくれもないとすら認知できない時点での判断によって、それ以前の時点で恐れるべき死について語るという、はっきり言えば論理的なトリックでしかないのである。一見すると説得力があるように見えるのだが、詳細に分析さえすれば何のことはない話である。