Scribble at 2020-09-02 10:42:29 Last modified: 2020-09-18 18:58:31
こういうのも、よくわかんねー話だよな。哲学としても、そして科学(生理学や認知科学)としても。
そもそも、シンギュラリティ系の mind uploading を信奉してる信者の連中というのは、自意識をどこかに move できると思っているようなのだけど、そもそも multiple realizability について何のまともな理屈も提案しないで、何の話をしているのやら、僕には理解不能だ。だいたい、Windows 98 の「ファイル移動」って、実はオリジナルのメモリ・アドレスにあるデータをコピーしてからオリジナルを消去する処理のことなんだから、これと同じではないと保証しない限り、やってることはただのコピーだ。おそらく彼らが保存したり維持したくて躍起になっている《自意識》とやらは、ただのコピーのデータが他の媒体に作られるだけであり、オリジナルは消失してしまう。というか、それが嫌で残すことを想定すると、これはこれで嫌な話だろう。コピーはデータとして《生き続ける》のに、オリジナルの《自分自身》は結局のところ消失するのだから。
こういうことを、昔は子供を作ることで和らげる人がたくさんいた。自分は死んでも子供は残る。でも、果たしてそうなんだろうか。遺伝子のパターンが一部は引き継がれるとしても、生物の遺伝子は常に個体の中でも変異を起こし続けている(そして、その結果としてガンになったりする)。実際のところ何世代も経過すれば、「残る」ところなんてヒトとして誰でももってるような一部でしかないだろう。そして、それすら変わっていくから生物は進化するとも言える。よって、或る意味では「残らない」こと自体が種としての存続の条件にもなると言いうるわけで、自分のコピーが後の世代に残るなんて理屈は、どう考えても『地球へ…』みたいな漫画の読みすぎというか、センチメンタリズムでしかない。