Scribble at 2020-08-30 12:13:42 Last modified: 2020-08-30 12:16:47

アマゾンで山本光雄氏の訳した『形而上学』(アリストテレス)のプレミアが10倍くらいに上がっている。去年の秋ごろに見たときは3,000円ていどだったものが、30,000円近くになっているからだ。今後、岩波から新訳が出る予定なのだが、旧訳の値段が急に上がるということは、(1) もうすぐ新訳が出るので旧訳が売れなくなる前に高く売っておこうとしているか、あるいは (2) 新訳の出版が遅れるという情報が入ったので旧訳の需要が上がるから高く売ろうとしているか、それとも (3) 単純に流通する数が少なくなっていることから希少価値が上がっているだけなのかもしれない。

幾つかの翻訳が出ている古典(たいてい、複数の翻訳があるのは「古典」だ)というものを丁寧に比較したことはない。もちろん、僕もヒュームやカントやウィトゲンシュタインの著作で異なる翻訳書をもっているわけだが、あからさまに誤訳だらけだと学界で話題になるほどのものでもない限り、どのみちプロパーや僕らのようなアマチュアは原書も読むわけだから、大過なければ気にはしていない。それこそ、訳語の些細な違いを気にして、自分自身の業績なり、哲学としての展開(進展や進化とは言わないまでも)にとって、いったい何の影響があるというのか。要するに、学術研究者としての業績だ。業績にとって違いが生じないなら、そこに入力としての些細な違いがあったとして、その違いに意味があるとすれば、それはせいぜいクオリアのようなものだろう。「私は」と言われると故郷の窓から眺める山々を思い浮かべるが、「私が」と言われると汐留の電通本社の窓から眺める高層ビル群を思い浮かべる、みたいな。

そういう文学的な暇潰しをしてる余裕があるなら、さっさと論文を書こうよ。

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