Scribble at 2020-08-28 09:52:44 Last modified: 2020-08-31 15:38:18

横書きの文章ばかり書くようになってから久しいわけだが、僕は常に句読点には「、」と「。」を使っている。理由は明白だ。第一に、僕が書いているのは(ナショナリズムとは関係なく)日本語の文章であり、日本語の文章として句読点に「,」や「.」を使うのは原則としてルール違反だからである。理工系の文書で使っているのは単なる(意味不明な)習慣にすぎず、科学的な合理性や客観的な根拠など皆無である。そして第二に、句読点に「,」や「.」を使うと、タイプミスで両者を取り違えても分かり辛いし、ましてや紙に印刷した場合にカンマの《ヒゲ》がインクや紙質の原因で欠けたり、また後から欠ける恐れもあり、欠けてしまうと判別が容易ではなくなるからだ。「、」の印刷がおかしくなって「。」と読める可能性は低いし、「。」の印字が擦れて「、」に見える事例も極めて少ないだろう。それに比べて、カンマとピリオドは文字として似すぎており、印刷やタイプミス、そしてそれらを校正する場合のリスクが大きいと思う。

すると、logical next step としては当然のことだが、では英文を書くときも「、」や「。」を使えば(少なくともリスクを避けるという目的にとっては)合理的に思えるわけだが、それをしないのはなぜか。耐障害性やリスク強度という理由よりも、それぞれの言語表記におけるルールを優先させるのであれば、けっきょく善人ぶって自分では否定していてもナショナリズムが本当の理由ではないのか。確かに、そう言いうるかもしれないが、恐らく英文だとピリオドで文を終結する箇所は、そこに何か記号があるというだけで分かるようになっていると思う。たとえば、英文だと文の first letter を大文字にする習慣がある。カンマで終えてから大文字で書き始める事例は、本のタイトルで分かち書きしている場合などに限られている。そして、文の途中で「,」だろうと「.」であっても、何か記号がありさえすれば分かるようになっているのではないか。そうでなければ、印字が欠けて正確に伝わらなくなる可能性があるのに、「:」と「;」のような判別しにくい記号をわざわざ使うのは、あまりにも愚かだと言わざるをえない。逆に言えば、判別が困難になっても記号として印字されていることが分かれば伝わるようになっていると考えるしかないので、英文の場合には彼らの道理や習慣に合わせているのである。

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