Scribble at 2020-08-17 08:58:47 Last modified: 2020-08-17 08:59:22

結局、古典を単に読み直す系の通俗本が乱造されたり、哲学のいたずらな否定や拒否が自然科学者から提案されたり、これまでに流行した哲学用語や論点・論争のカタログ本がばらまかれたり、あるいは実際のところ科学や技術について何の見識も素養もない哲学プロパーによる軽薄な「リアリズム」が叫ばれたりするのって、単にハーヴァードやソルボンヌに履いて捨てるほどいる学校制度的な秀才たちによる凡庸さの限界というだけではなく、やはり何かの転換期にきていると考えてもよいのだろう。そして、その一環として現象学と分析哲学が同根だったという研究が出てきたり(というか真面目に比較思想史を勉強すれば、フッセルとフレーゲがどちらも数学の素養から出発していたという理由で、そんなことことくらいなら50年くらい前の中学生でも類推できた筈だが)、哲学と自然科学、それから哲学と社会科学とのかかわりを組み立てなおす色々なアプローチが出ているのだろう。これはこれで歓迎するべきことだし、それらの成果は通俗的な出版活動や些末なイベントなんかよりも世の中に対するインパクトは強くなると思うので、もちろん支持したり、当サイトでも紹介したい。

特に、第一の「哲学と自然科学」については意識の研究成果を取り込んで、認識論だけではなく存在論についても伝統的な幾つかの前提は入れ替える必要があるだろう。もとより、僕は意識については脳で生じる電気化学的な反応の副作用ないし side effect であり、特定の器官や神経細胞に意識の《場所》を求めたり実体化するようなアプローチは全て間違っていると思うので、意識についての前提を入れ替えるというアプローチは自分自身の自説としてもサポートするつもりだ。そして第二の「哲学と社会科学」については、もちろん LGBTQ だとか、どうして海外の科学哲学や分析哲学のプロパーには黒人が殆どいないのかとか、あるいは以前からも書いている話だが、アメリカの論理的経験主義と(大学行政という小文字の、またはランド研究所などとかかわる大文字の)「政治」とのかかわりとか、そういった或る意味ではプロパーが隠したいかもしれない経緯や脈絡での仕切り直しも必要だろう。

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