Scribble at 2020-07-30 09:40:46 Last modified: 2020-09-18 19:27:34

もちろん僕は古今東西の著作や思想に通じているわけでもないし、それどころか現代の生命倫理学という範疇の中で議論されている経緯すら多くは知らない。しかし、これまでに当サイトで公開している thanatophobia に関する著作を公表するにあたり、二年ほどのあいだ調べたり考えてきた末の結論として、「死を恐れても仕方がない。どのみち死んだら《恐れる主体》が消失してしまうのだから」という議論は、いまだに相当な説得力をもっているらしい。僕は、反論しうると思っているのだが。いまのところ雑にエピキュロスの思想だと言っておいていいなら、我々は何千年もかけて、いまだにこの古い思想に対抗しうる明快な理屈をもっていないし、持つべきかどうかも定かではないというわけだ。新型コロナウイルス感染症という事案を発端として、最近では死生観にかかわる著作の出版が増えつつあるようだが、もちろん現代人の多くは感染症で死ぬよりも癌で死ぬ方が多いし、この数か月に死ぬよりも何十年か先に死ぬ方が多いわけである。いずれ僕らが死ぬということは動かない(意識のアップロード信者やナノマシン医療の信者が何を言おうと、それらによる《長寿》など理論や工学的な実証としてすら成立してはいない)のだし、別に感染症が流行しているからといって特別に考えるべき話題というわけでもなかろう。しかし逆に、事の本質から言って、僕らがいつでも考えて良い話題だとも言える。TMT を持ち出すまでもなく、全ての人に等しく当てはまる事案だからだ。

こういう話題を扱っているとき、thanatophobia に関して対称性という概念を持ち込む議論というのがある。ここで対称性を持ち込む議論とは、僕らは死によって(主観的には)全てが消失してしまうことを恐れるのに、どうして生まれてくる前にも(主観的には)全てが無かったことを恐れないのかというものだ。僕は、この議論は本当のところ要点がいまいちわからない。この議論を持ち出す人は、この問いを投げかけることによって、「死ぬことは生まれてくることと同様に、主観的には無と有の移行という意味では同じであって、生まれてくることが恐れるに及ばないのと同じく、死ぬことも恐れるには及ばない」と言いたいのだろうか。これは、僕には全く説得力がない。なぜなら、ここで「恐れるに及ばない」と評価しているのは、生まれてくるときは他人であり、死ぬときは本人だからだ。生まれてきた新生児に向かって「おぬしの誕生は是か否か」と問うバカはいまい。仮にブッダでもあるまいが、新生児が「おう、えらく怖えーかったぜ!」とか「別に。」などと言ったとして、それが哲学的になんだというのか。

加えて、僕は自分が生まれる前についても(脈絡や理由は違うとしても)同じように恐れは感じる。なぜなら、もし生まれてこなかったら無だったからだ。もちろん、そこで「ゾッとする」のは生まれてこなかった自分《について現在の自分が感じること》なのであり、生まれなかった自分の心境を現に生きている僕が《代弁する》などというのは、誰でも馬鹿げていると同意するだろう。要するに、何についてどう感じるにせよ、その基準はいま生きている僕らでしかない。こんな自明のことを、死んだ後の自分へ基準を擦り替えたり、生まれる前の自分へ基準を擦り替えるようなトリックで誤魔化せるわけがない。

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