Scribble at 2020-07-31 12:16:54 Last modified: unmodified
ここで取り上げようっていうんだから、大方の読者がご想像のとおりなのだけれど、僕はこういう取り組みは全く評価しない。それこそ、ワイン・テイストや絵画の良しあしやクラシック音楽やジャズの批評で知覚の哲学を語るスノッブどもや、「~の分析哲学」と称してありとあらゆるサブカルをネタに通俗書をばらまこうとしている都内の三流編集者どもやプロパーがやっている暇潰しと同じレベルだと思う。
ヨーロッパの研究者の方が高い評価を受ける著作や研究を続々と出すようになっているようだし、アメリカやオーストラリアの分析哲学の研究者は全体としてパフォーマンスが頭打ちになっているのだろうか。言っておくが、科学哲学はぜんぜんこんな些末なテクノロジーになど興味はないので、粛々と業績を出していけばいいと思う。そういう意味で、分析哲学は思想というか、批評というか、そもそもが或る種の知的パフォーマンスの劇場(酷い場合は、もちろん論理式を振りかざす自意識プレイ)だったのではないかと思えなくもない。