Scribble at 2020-07-24 13:17:29 Last modified: 2020-07-24 13:47:06

NYT にアリストテレスを拒むべきか否かみたいな話が出ているけれど、cancellation culture が押し進められると、当然ながら過去の愚かな一言だけで偉人や古典の座から放逐《されない》哲学者や思想家など一人もいまい。その手の揚げ足取りで発見される《エビデンス》など、アメリカにたくさんいる文化左翼の手にかかれば造作もなく穿り返されることだろう。そして同じく、ほぼ文化左翼しかいないと思われる日本の大学や物書き業界でも似たような状況が予想できなくもないが、恐らくはアメリカとは別の意味で思想や学説の多様性が・・・維持されているというよりも寧ろ社会的に軽視されすぎて放置されていると言ったほうが良い哲学や文芸批評においては、そもそもヨーロッパで起きたテロとヒュームの思想との関係が取り沙汰されていたときですら大半の思想オタクや哲学プロパーが無視していたわけなので、昨今の動向では何も変わるまいし議論にすらならないだろう。

日本の哲学者とか思想家とか物書きについてはどうか。例えば、田中美知太郎氏は保守的な発言をしていたし、竹尾先生も一時は『諸君!』に文章を載せていた時期があったという(「日本の哲学的風土--なぜ西田哲学は顧られないか」, 1977。西田幾多郎の本はとにかく頻繁に出版されるのだが、研究者はぜんぜん増えない。日本の先人を研究するというだけで、ナショナリストに誤認されると怖がっているのだろうか)が、別にああした雑誌に投稿したり寄稿を求められるだけで反動思想の持主かというと、別にそういうわけでもなかろう。同じく、『世界』や『潮』で取材記事を掲載していたら共産党員や創価学会員なのかというと、そういうわけでもないのと同じである。

ただ、一点だけ昔から真面目に議論されてきたのは、京都学派を免罪していいかどうかということだ。これも同じく竹尾先生がゼミで口にされていたように、田邊元氏は学生に「死んで来い」と勧めていたらしいし、和辻哲郎氏の中国人差別などもよく知られている。最近では、京都学派を一部の業績だけで「日本の古典」と祭り上げる東京の人文系出版社の風潮に対して、京都学派の「アジア主義」なるものは政治的に幼稚な人々の夜郎自大なネトウヨ発言に過ぎなかったと断罪する著作も現れているようだ。もちろん、こうした批評は色々とあっていいわけで、これまでは特に京大の研究者が人文系の出版業界で勢力を維持している事情から、なかなか京都学派について批判的な著作は出てこなかったのだし、敢えて逆張りの芸風しかない人々の著作であっても、ないよりはマシという態度で見ておく方がよかろう。ただ、それが単なる cancellation culture では底が浅いと言わざるをえない。

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