Scribble at 2020-07-22 21:57:49 Last modified: 2020-07-24 13:49:49

死の経験者は一人もいないが、死の恐れは誰にでも感じたり語りうるという意味で全ての人が当事者でもある。もちろん、ここには一定の基準なり排除の理屈があり、「ただし死の概念をもつ年齢の人に限る」とか「そもそも《思考》できる状態の人に限る」といった脈絡で、死の恐れを考えたり語りうる者の観念は《生物学的な脈絡でのヒトの全体を含む》ものでもなければ、《社会学的な脈絡で正しい(あるいは皮肉を込めて「優しい」)》ものでもないのだろう。なんとなれば、これは要するに哲学的に言って妥当な内容を意図しているわけではなく、僕自身が該当するように仕組まれているだけのものだからだ。したがって、冒頭の一文は「[僕]は死の経験者ではないが、[僕]は死の恐れについて語りうる」([...] は、いわゆる quasi-quotation)と言い換えてもいい。そして、当サイトで公開している文書は、これを自分自身について当てはまると考える人が読めばいいのであって、これらの両方(あるいは特に後者)を否認したい人は読まなくてもいい。

或る哲学のプロパーが自身の闘病体験から「死」について書いたという新書が出ており、おそらく一読には値するだろうからウイッシュリストに入れてあるのだが、《平時》において自らの死について考えたり語ることと、《有事》において(または《有事》の体験を経て)自らの死について考えたり語ることに、ひとまずあるとして、どのような違いがありうるかを見て取ることは重要だ。ただし、それを著書から正確に読み取るには、まずもって或る種の《現象学》(あるいは、既に指摘されつつあるように、現象学と分析哲学が殆ど《同根》と言ってもいい思想に根付いたアプローチであることを考えると、もうあからさまに「プロトコル言明」の対応概念とでも言ってしまった方がいいのではないかと思っているのだが)をやる必要があろう。著者も、特定のアプローチなり他人の祖述者を標榜しているらしいので、その手のフレームワークにおいてものを理解したり説明するという、自覚的に行っているとしても偏りが避けられないからだ。物事を体験した当人による解説というものが、実は当人の体験について正確な理解を表しているとは限らないのは、これ(つまり自分の体験として記憶から思い出している時点で何らかの偏りや選択があるし、思い出した記憶の解釈や理解を何らかの点で正確もしくは偏りなく説明しようとする是正行為そのもの)が最大の理由である。そして僕が思うに、これらの話題、つまり哲学者が伝統的に「記述的な認識論」と呼んできたような議論は、現在では《我流の、あるいは素朴な認知科学》と言ってもいいのであり、哲学科の学生が大学で学ぶべき科目は、デカルトやヒュームが登場する歴史だけではなく、現代の心理学や脳神経科学でもあろう。

なお、日本ではどうも昔から当事者を体裁として尊重する風潮というものがあって、当事者の話を有り難がって読んだり聞くくせに、実は(行政も含めて)大半の人々が、《私は》大変な経験をされた誰々さんのご苦労を伺った、という自意識プレイの道具にしてしまっている。要するに表紙や冒頭の数ページをめくって自宅に本を所蔵しているだけで読んだつもりになっている積読みたいなものだ。よって、癌の闘病体験という話題は多くの人々にとっても不安を掻き立てる興味深いものには違いないのだが、軽々しく「当時者のことば」などと安っぽいジャーナリズムの表現を使って持ち上げたり特別扱いすることは、日本ではたいてい《差別》や《ケガレ》の思考と実質的には同じなのである。

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