Scribble at 2020-05-30 08:48:34 Last modified: 2020-06-01 08:14:53

I’ll canvass two suggestions: first that the thought experiment is a kind of scientific experiment, and second that it is an appeal to imagination. As we will see, on either reading, thought experiments are highly fallible, and we should be circumspect about taking them to provide insights into real-world ethical problems.

The trolley problem problem

もしアナロジーを使う推論や思考実験、それからクズみたいな自称哲学書や啓蒙書の類に頻出するイラストや図版やグラフに訴える説明が、学問、なかんずく哲学において有効な伝達方法や論証の補助であるというなら、それらを図学や視覚心理学などの助けを借りて学術として真面目に扱うべきであろう。そして、僕はそれらの(通俗的であれなかれ)手法を使ってきた哲学の論説の大半は、少なくとも強いかかわりがある科学の成果にもとづく知見を適切に使って構成されてきたとは思えないのであり、簡単に言えば素人デザイナーの落書きを学術書に並べ立ててきたようなものだと言ってもいい。

結局、デリダが色々な著作で分析哲学を《おちょくる》までもなく、記号論理の式を見せびらかすだけで厳格さや真面目さを装ってきた人々の靴には、臭っさい犬のウンコが何十年もついていたというわけである。年数が経つと異臭はなくなるものの、そういうものが靴の裏にこびりついているかもしれないということを顧みずに "scientific (or formal) philosophy" を装ってきたという自己欺瞞が、21世紀に入ってから再び異臭を放ち始めたというのが僕の見立てである。とりわけアメリカと日本で盛んな、何の妥当性があるかも殆ど明快に(それこそ分析哲学的に)示されないまま放埓に展開されている、やれジャズの分析哲学だの、ワイン・テイストの分析哲学だのという、どう考えてもスノッブとしか思えないバカげた、本当に真の哲学的な意味でバカげた暇つぶしも、しょせんは無能な連中が何か切実な動機もなしに安っぽい使命感や読書だけで哲学の博士号を取ってしまう時代であがいている姿を反映しているにすぎないのだろう。おそらく、そのうち修士論文や卒論に「初音ミクの分析哲学」とか「BLの分析哲学」とか "philosophy of incel guys" などというテーマの紙屑が東大やプリンストンですら提出されるのだろう。

もちろん、当サイトでは既に明言しているとおり、僕は哲学のアプローチやスタンスや学説・学派について是非を語る者ではない。現象学であれ、科学哲学であれ、中世哲学であれ、あるいはアラビア哲学や弁証法的唯物論やチュチェ思想であれ、それが精神疾患や無能による錯覚であろうと、「哲学」を自称する何事かを予断によって「あれは哲学ではない」と断定することは不当である。しかし、「~の現象学」とか「~の科学哲学」というものは原理原則の応用であるからして、その是非は問われてよい。なぜなら、哲学的な思考があらゆる事案に適用されうるということは認めてよいとしても、それが当人にとっての切実な動機や目的において成立していることなのかとか、あるいは哲学の成果として共有するに値するかどうかという観点から、どう考えても「AKB48 の分析哲学」などという論説には応用としての妥当性が著しく欠けていると言わざるをえない。仮に、それが単なる応用であり、重要なのは議論の筋であるというなら、まったく同じ理由によって「文楽の分析哲学」は「おかまバーの分析哲学」に書き換えられてよいのだから、それがさらに「多様体の分析哲学」に書き換えられて悪いわけがない。要するに、それらの応用分野を決めているのは、哲学的な根拠などではなく、ただ単に出版社の編集者の《マーケティング》にすぎないのである。そして、それは哲学とは関係がないことであるからこそ、僕は哲学に良いも悪いもないと明言すると同時に、「クズ」という言葉を堂々と使っているのである。

確かに、そこからさらに進んで、そもそも「哲学とは関係がない」かどうかを決める根拠が何なのかを問うてもよい。そうして、結局は哲学に《貴賤》はないと言いながら、「哲学とは関係がない」という区別をしていることを疑問視するのは正しいのだろう。つまり、「哲学に良いも悪いもない。(※ただし哲学に限る)」というわけだ。これは欺瞞ではないのかと問われても当然である。しかし、簡単に言えばこういうことが欺瞞であるとは思わない。なぜなら、僕が哲学として扱ってもいいと思うものがなんであるかを僕が決めたり、あるいは社会的な慣習とか常識とか共通認識として許容しているという、リチャード・ローティが語ったような意味での「哲学」という前提から出発することに何の問題もないからだ。僕は、僕が「哲学」だと見做すことがらについて分け隔てはしない。よって、僕が「哲学」だと思わないことは、是非の判断からそもそも外れているのであり、考慮に値しない。よって、「鎌倉大仏の分析哲学」という著作で展開されている《哲学の議論》に何らかの価値はあるのかもしれないが、それを伝えたり表現するために鎌倉の大仏について語らなくてはいけないという条件を設定する哲学的な必然性は全くない(もちろん、僕は科学哲学者として同じことが量子論の哲学や確率の哲学にも言えると思う。それを議論するのに EPR paradox を持ち出さなくてはいけないのかどうかが明快になっていない議論は、やはり「クズ」の候補であろう)。

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