Scribble at 2020-05-04 17:54:46 Last modified: 2020-05-04 18:19:30

Questions about the meaning of life and others of a similar kind are often misconstrued by those too ready to think of them as straightforward requests for an objective true answer.

Philosophy cannot resolve the question ‘How should we live?’

著者の要点は上記の一言に尽きると思う。それにしても、哲学が真善美への「回答」だとか「見識」であるという、僕に言わせれば《マスコミ的・ジャーナリスティックな偏見》と言うべきものが醸成されたのは、いったいどういう事情によるものだったのだろうか。恐らく、これが理由で大半の人々は哲学と宗教を同一視するのだろう。もとより、大半の宗教にはれっきとした「答え」があるとされ、牧師や神父の解釈はただの未熟さを表すものでしかないとされる。いずれにしても、「答え」は数百ページの書物として現に目の前にあり、手が届くのだ。たいていは一冊 4,000 円くらいするがね。

これに対して、哲学にそのような著作物は存在しないし、存在する筈がない・・・のだが、国内の状況を眺めると、まるで様相は逆であり、あたかも色々な研究者が、これぞまさしく人生の手引きなりと言わんがための本を続々と出版している。元役人による自己啓発本、二流のギリシア哲学研究者によるビジネス本、最新流行の哲学を並べたてるしか業績がない人物の用語集、アマチュアが書いた表面的な理解や対立軸を固定化する愚にもつかない解説本、いやそれだけでなく、単に哲学をジョークだの漫画だので描く著作物すら、同じ事情を共有しているのだろう。そして、そのほかにも、都内の出版社やマスコミ関係者との人間関係だけでものを書いていると思われる人々が、安っぽい周回遅れの左翼運動を煽ったり、古典のつまみ食いを書いた業績によってか政府の教育関連の諮問委員になったりするのが、この国の「哲学プロパー」がたどる双六のゴールというものらしい。そして、くたばる何年か前に「知の巨人」だのと岩波書店や筑摩書房から著作集を出すのが、彼らの the meaning of life というわけだ。

まったくもって、日本の哲学教員(の願わくは一部)は恥を知るべきである。

自分たちのやっていることこそが、哲学だけにとどまらず学問あるいはもっと広い意味での知的探求なり研鑽に対する、偏見や無理解のお膳立てをしているという自覚をもち、少しでも(そういう連中に哲学者としては望むべくもないが、少なくとも人としての)良心があるなら、たとえば「街場」と称して自分たちに都合がいい意見をもつ人々だけから集めた勝手な議論を弄ぶ著作物の発行をやめるといった《責任》をとるべきではないか。

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