Scribble at 2020-03-29 23:02:16 Last modified: 2020-03-29 23:10:38

メタ・レベルの議論として、先日は古典の解釈とは何のことなのかという話題を出した。さらに解釈について続けると、単純であり、誰でも思いつくような疑問ではあるが、大真面目に検討されたり、疑問に対する試論としての回答が公の場で批評の目にさらされたことが殆どないと思われるのは、古典の解釈は何をもって完了したり終わったと言えるのかというものである。もちろん、学部生どころか高校生でも言えることだが、そのような疑問に何か意味があると言いうるためには、そもそも解釈ということが「完了する」とか「終わる」とはどういうことなのかが分かっていなくてはなるまい。

それにしても、古典の解釈というものは長大な時間を費やしても終わる様子がない。たとえばプラトンの著作についても、いまだに続々と解釈を与える論文や書物が出版されている。それゆえ、ホワイトヘッドが『過程と実在』で述べたとされるフレーズのように、哲学の歴史そのものがプラトンの解釈と共にあったと言っても過言ではないとされる。なお、当サイトは通俗的な解説を目的としているわけではないので、或る意味では野暮なことでも堂々と議論するわけだが、俗書の多くに書かれている「哲学の伝統はプラトン哲学の脚注である」というフレーズは、正確には "The safest general characterization of the European philosophical tradition is that it consists of a series of footnotes to Plato."(西洋哲学の伝統がもつ一般的な特徴を最も穏健に表現すれば、それはプラトンについての一連の脚注で成り立っているということである)となっている。なお、このフレーズはホワイトヘッドという人物や『過程と実在』という著作について述べた Wikipedia のエントリー、それから SEP (Stanford Encyclopedia of Philosophy) のエントリーには出てこない。

僕がその理由を代弁するなら、端的に言って些末であるかバカげているからだ。もちろん、僕もプラトンの著作が哲学的な思索の豊かな指標や源泉になっているという事は認める。しかし哲学のプロパーが、たいてい学生時代にプラトンの著作を読んで、何らかの影響を受けているという社会学的・教育的な脈絡でそのように言われているのであれば、そんな些末なことを指摘することに哲学的な意味はない。また、これが何らかの思想史的な影響関係を論じているというのであれば、何の証拠もない妄想でしかないだろう。あるいは、およそ哲学を志す者であれば、誰もかれもがプラトンを読み、そして自分自身の見解を《プラトンと相対的な位置関係において》打ち立てるのが学術研究の穏健な成果を引き出すための実務であるという意味だとしても(半分は皮肉なのだが、とりあえず議論をこのまま進める)、そういう脈絡での西洋哲学なるものにア・プリオリな正統性も妥当性も感じてない哲学者にとっては、それこそデリダらによってからかわれたような、実質的に小文字の政治を意図したプロパガンダのようなものでしかあるまい。

では、仮にプラトンの著作を遺漏なく完全に翻訳して理解できたと言いうるための基準がどこかにあるとして、それが満たされたと判断された結果として「プラトンの解釈はめでたく終結した」と、日本哲学会の会長が宣言したとしよう(こういう肩書に、実際のところ哲学的な権威がどれほどあるのか、哲学者である僕にはまったく理解不能なのだが、とりあえず凡人のレイヤーでは何か基準として《使い物になる》のだろう)。すると、どうなるのか。後は、プラトンに関するどのような研究が可能だろうか。すぐに想像できることだが、『A』という著作物の内容を正確かつ完全に理解できたとして、そこから先は『A』について何も言うことがなくなるのかと言えば、そんなことは全然ない。なぜなら、『A』に書かれている内容を理解して、自分自身が何をどう考えるかという次の課題が幾らでもあるからだ。よって、解釈が終わったという段階がやってきたとしても、僕らはプラトンを読み続けた方がよいと言い続けられる。

もちろん、このような想定はおそらく現実的ではないし、原理的にも間違っていると思う。なぜなら、文字としてプラトンの著作を確定できたとしても、それを理解するための言語的な脈絡とか読み手の知識や経験によって、そのテキストを理解したところの内容はいくらでも変わるからである。その大半は、もちろん僕らも含めて未熟だったり、何らかの偏向があったり、そしてそもそもプラトンが意図していた意味合い(それが本人とってすら自分自身で正確に説明しうるとは限らないことがらであろうと)とは違っているだろう。したがって、たいていの解釈はどこかが間違っており、そしてどこかは正否を判断する基準すら分からないのである。たった一冊の著作物ですら、そういう実態なのだ。加えて、プラトンの著作が世に現れてから2,500年ほど経過すると言っても、彼の著作を読み、そして真面目に検討した人の総数など、実際のところ解釈として可能な論述なり表現と比べれば、わずかと言ってもいいだろう。そして時代が進むと、今度は過去にプラトンの著作を解釈した人々の残した論説すら、後世の僕らは正確に言って何をどう解釈していたのか、まさに解釈しなければわからなくなるのである。

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