Scribble at 2020-03-24 12:00:38 Last modified: 2020-03-24 12:06:34

プログラミングしたりゲームをプレイしていると、誰でも一度くらいは「なんでヒトって、指が5本しかないんだろう」とか「どうして、ここでこう動ける腕がもう1本ないのかっ!」とか思うことがあるだろう。実際、自分がやりたいことに比べて生理的な条件に制約が色々とあるのは事実で、それこそ僕のように公道の歩行・通行を《サバイバル》だと考えているような人間からすれば、頭の後ろに目があればと思うこともある。スポーツ選手にしても、どうして足がもっと速く前に出ないのかと、もどかしい思いをすることが何度もある筈だ。

これは、恐らく "WIILTBAB" (What is it like to be a bat) 事案というべきものであろう。そして、仮に僕らの指が片手だけで10本あったとしよう。すると、僕らはその指を使ってプログラミングする様子を、攻殻機動隊の公安9課のオペレータがタイプするような光景を単に思い浮かべるだけではなく、実感として自分ならどういうタイピングをしている筈だと想像できるだろうか。もちろん、10本の指を使う実感など想像できるわけがない。しかし、これは論理的に不可能なことだから想像できないのではない。もし論理的に不可能であれば、それはつまりヒトの生理的な必要条件として指が5本あると言っているのと同じであり、これは僕らのもつ観念どころか社会的に共有されている概念としても同意できないからだ。たとえば、或る業種の方々は小指がないと言われるけれど、まさか潜在的な(というか、検挙されてないだけだと思うが)犯罪集団だからといってヒトではないとまで差別していいとは限らないだろう。また、仮に指が1本だけ多いという「奇形」として生まれた個体がいたとして、(失礼ながら)《それ》がヒトではないと言いうる根拠など、殆どなかろう。指が5本あって、それらのちょうど5本ある指を使って何かをする実感というものをヒトとしての必要条件であるかのように思い込むのは、クオリア遊びとしては好きにすればいいし、そういう下らない実感をもとに小説すら書こうかというくらいの作家も日本にはいるだろう。しかし、そんなものは哲学的には些事些末の極致であり、このようなことを議論するどころか、こうして些末だと指摘する労力自体が時間の浪費である。

よって、われわれがヒトとして何かを求めたり実感として感じるということと、そのための生理的な条件とは、どちらかが他方の必要条件であるとか十分条件であると言えるものではない。指が何本あろうとなかろうと《ヒトはヒトである》と言えるていどに、それらは論理的には無関係なのである。恐らく、こう論じてくると、典型的な発生論的誤謬によって反論する人が出てくる。つまり、ヒトは指を5本もつように進化してきた生物種なのだから、ヒトが指を5本もつことはヒトであるために必要であり云々というわけである。いわゆる人間原理も似たような誤謬にもとづく、子供騙しの結果論だとは思うが、このような御託に哲学者がわざわざ付き合う必要はない。

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