Scribble at 2020-03-22 12:38:35 Last modified: 2020-04-14 09:47:52

日本語訳される古典があいかわらず多くて、もちろんこれはこれで成果だとは思う。だが、こういうことをやって何の意味があるのかという堅実で冷静なメタ・レベルの考察をする機会は、本当のところあるようでない。

僕は常々、このような学術研究とか哲学という営為そのものについてのメタ・レベルの考察や議論は、いまで言えば「応用哲学」とか知識社会学とか思想という脈絡で論じられうると思うし、多くのプロパーは学生時代に居酒屋で喋っていた筈だと書いてきた。ただし、僕自身について言えば、学術研究について学生として議論していたのは、せいぜい関大の修士だった頃に先輩たちと生協の食堂などで喋っていた3年間くらいしかなく、神戸大の博士だった頃は森先生と話はしたものの、哲学の同期は殆ど顔を合わせる機会がなかった茶谷さんくらいだったし、先輩や後輩ともゼミを除いては話をする機会がなかったので、メタ・レベルの議論は不足していたと言っていい。色々と自分だけで考えたりメモを残したりしているのはいい。こんなことは学者を志望する人間なら、それこそ小学校くらいからでもやっているだろう。しかし、議論として自分の意見を俎上に載せる機会は、チャンスがないと難しい。したがって、こうして自分では勉強も調査も思索も不足していると思われる話題を、こんな歳になってすら敢えて持ち出しているというわけである。

ということで、古典の翻訳という話題に戻ると、まずプロパーは献本を受けることが多いし、大学の図書館にある蔵書を読めるし、科研費で購入した本も読めるため、翻訳を含めて日本語で書かれた本を読む苦労は殆どないと言っていいだろう。自費で少しずつ買っているような僕ですら、公共図書館を利用するだけで、相当な分量の本が読める。いったい誰が読むのか知らないが、『プラグマティズムの歩き方 上・下』(合計で約8,000円)、『存在と出来事』(8,800円)、『フレーゲ哲学の全貌』(9,350円)、あるいは色々な著作集も、公刊されてから数か月以内には(予約されたり貸し出されている様子がないまま)図書館に収められている。したがって、国内で出版されている本については、とりわけ研究書の評価はプロパーに任せておいても全く問題はない筈だし、彼らにはその責任もあろう。では、特に翻訳書についてはどうだろうか。僕は、アマチュアだからといって翻訳された本や日本語の本を読むだけでいいなんて全く思わないので(敢えて言うが、アマチュアとは「能力不足の人がやる趣味」のことではない。単に大学へ所属しておらず、研究や教育について職責を負っていないというだけであって、研究する者であることに変わりはない)、寧ろアマチュアでも翻訳の古典だけに頼っていてはいけないと言いたい。しかし、プロパーもアマチュアも積極的に翻訳を読んで研究するわけではないというなら、いったい誰が古典の翻訳を《買ってまで読む》というのか。

もちろん、マーケティングとしては学生や素人や読書家、つまりは「一般読者」と呼ばれる、購買者層として《いる》ことは分かっていても売り上げの予測が立てられないような人々が買うのである。そして、そういう人々は専門的な知見もなければ、そもそもその古典を読まなくてはいけないという学術的・思想的な動機も目的もない筈なので(お勉強としてとか、ニーチェについて何か言えたらカッコいいというていどの動機や目的はあろうが)、僕らとしても積極的に勧める必要すら感じない。つまり、これだけの推定を全て満たしている状況においては、古典の翻訳書を出版する意義なり社会的な効用というものは、経済的にはともかく、哲学的には完全に欠落しているのである。そして、このような冷徹な想定(事実とまでは言わないが)を見込んで翻訳に携わったり、翻訳書を利用するかどうかを自分の学術研究者としての生き方の問題として考えるべきかどうかもまた、メタ・レベルにおいては、コミットメントにかかわる一つの課題になるだろう。

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