Scribble at 2020-03-18 12:48:43 Last modified: unmodified

一ヶ月くらいはこちらに書いていなかったのだが、通勤する途中でここへ書き留めておこうと思いついたことがあった。

僕は学部生の頃からドクターだった頃まで、文献を解釈するということについての、原則だろうと考え方だろうと実務だろうと、指導教官の誰一人からも指導なり教育なり講義を受けたことが一度もない。もちろん高校時代までの間に国語などで教わったこともない。よって、ひとくちに「古典の解釈」と言っても、恐らくは自分の見識(と言えば聞こえがいいけれど、要するに我流)だけでやっている可能性は高いだろう。しかし、これは僕だけの事情であるとは限らないと思っている。確かに、僕は学部時代は法学部の学生だったから、古典を解釈するというよりも、原則の議論を基本書で学ぶことと、それから典型的な判例を学んで自分なりの理解の仕方を納得いくように整えるというのが実務の大半なので、哲学科の学生とは異なる学部時代を送ってきた。したがって、古典の解釈について多くの大学では学部時代に原則となる考え方を叩きこまれ、専門課程では実際に演習で指導されるというのであれば、これは哲学科を出ていない人間に特有の事情だと言えるだろう。

しかし、僕は神戸大学では TA として学部の演習にも参加していたし、神戸大学の「哲学懇話会」では学部生の卒論発表会にも参加して批評を加えたことがある。それこそ、帰納法をテーマに取り上げた人がヒュームについて論じていたところなどは、僕もヒュームについて扱った内容を事実上の卒論としていたので(出身大学、というか多くの大学では法学部に卒論という制度はないのだが、関西大学へ進むときに竹尾先生へ「卒論」の代わりとして提出している。当サイトで公開している「ヒュームの関係概念」がその文書だ)、自分が理解する限りの内容と突き合わせて質問したり意見を述べたこともある。もちろん、ドクターとは言っても僕だって学生の一人なのだから、解釈として明らかに間違っていれば、一緒に聞いている教員(それこそ、松田先生のように近代哲学が専門の方)から突っ込まれるのだし、特に僕の解釈がおかしいとは言われなかったという事実は記しておいてよいだろう。

ということで、僕の考え方としてやっている解釈が明らかに間違っているというわけではなさそうなので、書いておく。それは、僕から見れば解釈というものを勘違いしているように思える事例が多いからだ。つまり、解釈というものを、文献に書かれている文言の意味を自分なりに説明してみせることだと思っている人が多いということである。学部生のように、恐らく哲学科のような専門課程でも教えられていない可能性がある人々においてはもちろん、プロパーであっても、その人なりの見識と言って済ませておいてよいものかどうか疑わしい場合があるので、こういうメタの議論は敢えてしておく必要があろう。

僕が思うところでは、解釈というものは p という言明あるいは p を構成する個々の語句について単独でウンウンと唸りながら意味を掴もうとしても無駄だし、それどころか当人のもつ動機や目的や事情や人生経験などによって無用のバイアスがかかりやすい。敢えてそれを自覚してやるというアプローチも、確かに解釈学としてはありうるものだが、学生にそういうことを何の解説もなしに期待するのは馬鹿げている。大学へ入るまでに高校生がガダマーやペゲラーやディルタイを読んでいる筈だと期待したり要求していい正当な理由などない。古典研究や古典解釈が、実は多くの人文系の学科で正式なメソッドなり実務として教えられておらず、学生の感受性だのセンスだのに依存する茶飲み話やスノッブ的な暇潰しに終始する傾向があるのは、結局のところ客観的に教えたり議論できないところで色々な前提を勝手に持ち込むからなのだ。誰かが誰かに伝達したり教育したり、あるいは自分が他の年代で自分の書いたものを読み直すという場面で《共有》するという客観性をもつには(そして、それを教えるべきでもあろう)、p の意味をクオリアとして納得したり同感するまで考えるという内観や反省に頼るアプローチでは学術研究としての質を問えない。q ⇒ p ⇒ r といった推論において、p と、それから仮定として導入される q との関係、そして p と、それから帰結として導入される r との関係が十分に妥当なものであるかどうかを吟味して、或る文献、あるいは当人が書いたか読んだ他の文献にある q や r との関係を結び合わせることにより、p という言明の役割を定めることが解釈だと思う。

つまり、個々の単独の言明や語句の意味ではなく、それの脈絡を定めて論理的な推論に布置した場合の妥当性を見積もることが解釈の実務なり効用だろうと思っている。これとは違って、意味を追い求めるアプローチから書かれた解釈研究の文章というものは、僕に言わせれば「ウィトゲンシュタインのように生きたい」とか「カントのように考えたい」というクオリア探しの、目的地がわからぬまま旅を続ける人が書くような紀行文でしかない。そもそも、「ヘーゲルはこう思っていたのだろう」などと言われても、書かれたことがらの多くは本人すら論理的な含意について、どこまで自覚があったかどうかも分からないのであり、それゆえテクストが「開かれている」というポスト・モダン的な理屈は、科学哲学を専攻している僕の観点からも正しいと言える。このような、社会言語学的な当たり前とも言える事実を否定する方が、僕からすれば言霊だの、あるいは言葉の魔術説の信者だと言える。言葉について自分が感じるクオリアに真実などないのであって、そんなものは自分自身ですら十年後に同じ認知内容だと保証できる基準は主観的な脈絡では存在しないのである。僕が分析哲学「も」学んでいて、プラグマティズムと親近感をもつ点で納得できるポイントの一つは、彼らが言表された表現の意味ではなく論理的な有効性を重視し、それはつまり《公共性》を重視していることにある。もちろん、それが《客観性》ともども文句のない基準であると言いうる保証はない。実際には公共性も客観性も、公共的でもなければ客観的でもない、各人の観念や主観の産物の社会言語学的な最大公約数であるという可能性もあるが、どういう概念に訴えるかという点では、僕はこちらを選ぶ。

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