Scribble at 2020-01-22 21:21:54 Last modified: 2020-01-23 11:11:51

何かをきっかけとして自分の考えていることに変化が起きるとか、何か重大な誤解をしていたことに気づくとか、そうした効用を求めて本を読むという事情は分かる。単に情報なり知識を得るためだけではなく、そのような文字通りの「啓発」を期待して本を手に取る人々がいるというのは、或る種の文化を維持している社会では自然でもあり、理解可能なことだと言える。

ただし、そのきっかけを作るのが文庫や新書の短い論説や作品であると期待するのは、何の根拠もない話である。自分が気軽に買える商品の中に、自分にとって決定的に重要な著作物があると期待することには全く何の正当化も不可能だ。それは、自分にとって都合の良い読書の環境が何故か最初からセット・アップされているというファンタジーにすぎず、世界がそのようなものだと妄想することは重大な自己欺瞞である。

実際、現実に学術研究者や多くの読書家なり優れた業績を上げた人々の意見を集約したことはないと思うが、多くの人々が他人に勧める著作物として文庫本や新書本を挙げるのは、彼らの多くが実際に読めた本の中で選んでいるにすぎないからであり、それが書籍全体の中でのベストどころか、他の文庫本や新書本に比べてベターである根拠すら何もないのである。そして更に、これまでの経験から言えば、文庫本を読んだり新書本を読んだという人々は数多くいるが、さてそれらの人々がもたらした実績とはどのていどのレベルのものだろうか。特に人文学や社会科学の研究者や物書きの多くは、他人にこれを読めと指南できるほどの国際的な実績を上げただろうか。世俗的な基準かもしれないが、科学哲学の日本人研究者で、たとえばラカトシュ賞なりバルザン賞なりジャン・ニコ賞なりをこれからの50年間で受ける可能性がある人は出てくるだろうか。もちろん、その多くの人たちは、われわれ凡人よりは勉強しているし《知性》があるかもしれないので、たとえ日本人の哲学プロパーが海外の突出した業績の人々のように 89.5 ではなく(どういうスケールでのスコアなのかはどうでもよく、何となく圧倒的な差があるということが伝わればそれでよい)1.2 だとしても、われわれは 1.0 なのだから 0.2 くらいの差で学ぶべきことはあろう。そういう、日本人に特有のセンチメンタリズムで日本のプロパーは下駄を履かせてもらいつつ、とりあえず東京大学の教授とか、聞いたこともない三流大学の講師とか、そうした権威なり社会的な立場を維持しているのだといえる。

だが、哲学者にとってはそんなことはどうでもよい。これまでの日本人が何千冊の新書本を読破してきたのであれ、無能は無能でしかない。よって、本当に真剣にものを知り、考えたいと願うのであれば、新書本を読む時間は無駄である。単なる情報媒体とか気晴らしの読み物とか、あるいは僕のように《見識ある大人》でありたいと世俗的な価値観から願うのであればともかく、そんなことは関係なしに宇宙の真理を探究したいと願うなら、そういうことは絶対に無視して突き進まなくてはいけない。はっきり言えば、古典と評価される書物であれば何がしかのコミットメントに値する期待はできるかもしれないが、古典でも何でもない文庫本や新書本に真理へのヒントや手掛かりなど何もない。そして、そういうものだと割り切って勉強や思索という活動にコミットするしかないと思う。そしてもちろん、単行本にすら読むべきものが本当にあるという保証もないのである。しかし、完全に書物を無視することは、恐らく誰にとっても自らの思考を歪めるリスクを引き上げることになりうる。よって、何かを読むということには大いに価値があると言えるかもしれない。そして、それが山本何某らの書く大部の単行本や、1冊で数万円する豪華な本である保証などもない。そうした、たくさん文字を書きましたとか、きれいなご本をつくってもらいましたといったセンチメンタリズムに哲学的な価値など何もないのである。

[update / 2020-01-23] 昨今の事例からすぐに『ロウソクの科学』を引き合いに出す人がいるかもしれないので、少し追記しておく。もちろん、当サイトをご覧になっているくらいの方ならお分かりかと思うが、物事の因果関係や関連性などというものは、本人の主張なり記憶が決定的な原因を特定する証拠になるという保証は何もない。人には自己欺瞞という認知的な脆弱性があるからだ。したがって、ノベール賞を受けたご当人と、スケベ根性が見え見えの出版社がどれほど《『ロウソクの科学』を読めば君もノベール賞が取れるかも?》などとキャンペーンを張ったところで、社会科学的には何の根拠もないし、ご本人の思い込みや記憶の捏造という可能性もある。それに、この場合にも言えると思うが、人はプラスの要因にばかり着目して、マイナスの要因には着目しないというバイアスがあるのだ。そもそも子供が化学なり科学に興味をもって打ち込むという環境が揃っていることの幸運に目を止める人は少ないし、いたとしても、それを指摘すると身も蓋も無くなる可能性があるので、敢えて指摘しない場合もある(たとえば、とんでもない大金持ちだとか、海外でよくあるように公的な教育を受けずに家庭教師の指導だけで育ったとか)。あるいは、誰であれ自分が興味をもってやっていることを、兄弟や親や教師や友達などから邪魔されないというだけでも、たいていにおいては恵まれた環境だと言えるのである。住んでいる場所が戦争状態にないというだけでも大きな幸運だろう。そういう観点で言えば、文庫本を1冊読むかどうかが決定的であるなどという考え方は、センチメンタルどころか子供の発想ですらなく、或る意味では欺瞞的で不当だとすら言いうる。

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