Scribble at 2020-01-17 20:22:00 Last modified: 2020-01-17 20:29:35

いやぁ、新書でもマルクス・ガブリエルの本って3冊くらい出るんじゃないのか。あいかわらず消費だけは旺盛なイナゴっぷりだけど、凡俗はもちろんプロパーですら(翻訳したという事実以外の)何の業績を残せるものやらといったところだよね。

結局、この手の流行哲学を面白がってる都内の左翼なんてのは、貧乏な若造か、あるいはスノッブの年寄りという二者択一になっちゃってるんだよ。そして、若造でちょっと話題になると岩波や朝日といった媒体から本を出してもらうのと引き換えに、年寄りの学者や物書きに都合よく敷かれたレールの上で発言したりものを書くようなポジションに押し込まれてしまう。そして、有能な人はそういう人間関係とか利害関係に辟易して離脱していくので、生産的な世代の研究者が不足して、しょーもないコンサルとかジャーナリストがものを書くというのが日本の人文・社会系の出版事情だと言っても、言い過ぎではなかろう。

なので、パブリシティを基準にすると、ほぼそういうことになっているので、どれほど up-to-date な議論やテーマを出していようと、そんな連中の書くものなんて本当のところ読むに値しないのだ。たとえば、数年前まで流行ってたシジェクなんて、それを読んで日本の社会科学者が何の顕著な業績を出せたというの? あの白熱教室のオッサンが書いたり喋ったものをたくさん本にして、いったい日本の倫理学では何を彼から受け取ったんだろう。またぞろトロッコ問題のような知的玩具をいじくりまわすレトリックをあれこれと覚えただけじゃないのかな。制限された条件の中でものを考える訓練として有益だとブログ記事に書いた人物がいたらしいけど、ではそれで何の成果があがり、哲学として何を一歩でも前進させられたのか(彼らがお気に入りのアメリカの哲学では、こういうプレゼンテーションは大切なことだ)。「それを学んで、お前は何をしたの?」という質問に答えらえなければ、結局は英語で読書できるというだけのスノッブがあれやこれやと悩んで見せるという自意識プレイを、僕らは膨大な数の哲学や倫理学の通俗書で見せられているだけのことでしかない。

早稲田の若造でもいいし、四国の元役人でも流行哲学のまとめ本が好きな人でもいいし、あるいはウーロン茶か飲茶とかいう素人でもいいが、彼らのように流行哲学をもてあそんでは屋上に再び屋根を構えるような通俗本を書き散らしてきた連中は、いったい自分では哲学や倫理学で何をなしえたというんでしょうかね。僕らは哲学をしているのであって、暇さえあれば読書感想文をブログに何時間も書いていられるような、彼らのごとき悩める成金の若造たちを眺めつつ、彼らがマズロー的な意味での成長を遂げる様子を微笑ましく見届けることに人生を費やそうと望んでいるわけではないのだ。

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