Scribble at 2020-01-07 12:28:02 Last modified: 2020-01-08 09:44:47

確かに学術研究や調査の成果として公表される著作物なり記事というものは、それなりの対価や評価で遇するのが良いとは思う。新聞は毎日のように取材していて、その成果を記事にして頒布している。毎日のようにそんなことをし続けている人々に一定の金額で報酬を払うため、新聞を一定の金額で購読したり駅で購入するのは、現在の制度においては常識的なことだ。仮に何か空想的な環境の国家で通貨というものが無いと仮定しても、彼らの働きに見合う賞賛なり評価はあってよい。もちろん、内容によっては非難や批評どころか法的対処もありうるが、それは成果に対する評価の話であって、そこへ至る労力に何の報酬もなくていいというわけではなかろう。

しかし、学術研究の成果に話を限定してみると、昨今の相場では学術論文を閲覧する権利は1本につき 3,000 円ていどとなっている。単行本を一冊買うくらいの対価を払わないと1本の論文を読めないというのが実情だ。それだけ論文を掲載するコストというか《単価》を高く設定しないと、元が取れないほど読まれていないということなのだろう。そして、僕らのようなアマチュアが何かの研究で論文を読む場合、僕らは institution fee で契約している大学図書館の権利を利用してジャーナルのサイトへアクセスすることはできないし、僕はたまたま関西大学の(修士課程の)卒業生なので、「校友」という名目で図書館へ入るカードが作れるから、関西大学の図書館が冊子体として購読している雑誌のバックナンバーを閲覧したりコピーできるが、そういう有利な条件にない(卒業した大学の図書館が雑誌をあまり購読していないとか、卒業生に図書館を利用する権利を与えていないとか)人は、どこかの図書館を研究者として利用できるよう、その図書館が付属している大学の教員に紹介してもらうといった人間関係をつくることから始めないといけない。それでも、読める雑誌は限られていて、僕が在席していた頃の関西大学では American Philosophical Quarterly や Philosophical Studies を図書館で購読していなかったため、APQ は神戸大学に進学して初めて図書館が購読していたものを利用できたし(それでも全てのバックナンバーが揃っていたわけではない)、PS は近畿大学の図書館にあったのを読んでいた(ただし、当時は近畿大学の学生でなくても図書館へ自由に入れたからだ)。資料を安価に読めるかどうかは、こういう細かい調査とか単なる幸運も関わる。こういう条件が揃わなければ、やはり1本の論文につき 3,000 円でアクセス権を購入しないといけない。

ということは、僕のようにある程度は恵まれた条件を無視して言えば、アマチュアとして一定の水準にある論説を書くために読むべき論文の数を最低でも 50 本ていどと見積もると(定番と言われる古典的な論文から最新のサーベイまで、それくらいはプロパーでも読むだろう)、おおよそ論文を読むために必要となるコストは 150,000 円ということになる。はっきり言って、趣味的にやるにはそれなりの出費だし、実際にこういう想定なり計画を立てて資料を集めたり研究を遂行しているアマチュアは殆どいないだろう(というか、プロパーですら計画性のない場当たり的な読書ばかりして2,3年に1本すら論文を書かない人だってたくさんいる)。そして、これは論文だけのコストだから、他に単行本を個別に買って読むということまで含めると、1年間の予算として考えても 200,000 円ていどはかかると考えていいし、プロパーならもっと多くの実費がかかるくらいの《読書》はしている筈である(そのうえで思索なり研究をしているかどうかは知らないが)。

これを単なるサラリーマンの書籍代として考えると、確かに異様な金額ではある。もちろん、ケータイ料金に月額で 10,000 円、つまり年間で同じていどを払っているのに、なんで書籍に同じていどの金額を捻出することが異様だと言われなくてはいけないのかと思う人はいるだろうが、実際にそれだけのお金を本や雑誌に費やす人は殆どいないのである。プロパーが大学等からの助成を除いて個人として出費している書籍代としてなら、もちろんありうる金額だ。そして、アマチュアでも一部の資産家であれば十分に捻出できる。そして、僕らのような標準的な年収の勤め人としても、幾つかの条件(子供がいないとか、大病を抱えていないとか)があれば少しは余裕がある。しかし、やはり一ヶ月で1万円ていどの出費ができるというのは、どう考えても先進国で生活している一定の年収がある家庭の人に限られているだろう。世界規模で言えば、どう見ても有利な条件で生活している人間のやることである。

こうして考えてくると、一方では、学術研究の成果に正当な対価を支払うということには意味があるとはいえ、それができるのは一部の裕福な国の一部の人間に限られるということになる。それゆえ、同じ国の中でも裕福とは限らない人々、そして国全体が裕福でもない状況の人々は、単なる金勘定の理屈だけで言えば学術研究の成果にアクセスできない。たとえばアフリカの幾つかの国では国民の平均年収が 10 万円を下回る。そういう境遇で『サピエンス全史』の上下巻や『21世紀の啓蒙』の上下巻を買える人々は、どれくらいいるだろう(これは、この手の通俗書を《出し続ける》人々に対する当てつけも半分くらいある。訴えたいことがあれば既に出した本を普及させる努力をするべきであり、結局は同じことを繰り返して言ってるにすぎない焼き直しの本を繰り返して出版するのは、それこそ啓蒙でもなんでもなく単なる商業主義だ)。

これは、オープン・アクセスのようなムーブメントが商業的な活動と調和するのかどうかという問題にも関連するが、そもそも何かの成果への対価とは何なのかという話でもある。知見が広く共有されて人類の知識や技術や思想が増進されたり進展するという大きな成果があれば、自分自身の所得など増えても増えなくても構わないなどと公言する学術研究者は、良い悪いはともかくとして、たいてい生活に困らない資産家や貴族だ。そして、そういう人々がいればこそメセナとしての文化や学術に対する投資も積極的に行われるという現実があるので、一概に嫌儲とか守銭奴とか言うだけでは何も解決しない。全員が仲良く貧乏になった社会というのは、結局のところ技術も医療もエネルギーも活用できなかった原始時代の社会にほかならないからだ。

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