Scribble at 2020-01-02 10:10:47 Last modified: 2020-01-08 09:45:55

つまらない本を「せっかく買ったのだから」と我慢して読む人もありますが、それこそ時間の無駄です。最初の10ページでおもしろくないと感じたら放り出します。別の本を探すほうがよほど合理的です。

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Messages で言及した『現代ビジネス』の記事で、引用した文章のすぐ後に上記のような指摘もある。これも確かに《合理的》な判断や行動に見えるのだが、しかし僕に言わせれば昆虫の行動と殆ど同じであり、こんなことを繰り返すようでは中小企業の役職としてすら満足な業績は上げられまい。なぜなら、本当の問題はどうしてそういう「つまらない本」を買ってしまったかということにあるからだ。これを顧みない人は一定の頻度で同じ間違いを繰り返す。そしてマネージャが部下や同僚や上司から信頼されるためには、やはり同じ間違いを繰り返さないということが大切なポイントの一つなのである。

例えば、僕も10年に一回くらいは買ってから読み始めて放り投げるような本をつかむことがある。ここ最近では、それこそ10年ほど前に買った岩波新書の『ベルクソン』は、冒頭の数ページを読んだだけで、これはベルクソンの生涯や著作をネタに便所で著者がつぶやいているような独り言にすぎないと判断して読むのを止めてしまった。どこかで寸評を書いたから読んだ人もいるとは思うが、この新書は冒頭から何を言っているのやら、フランス思想のプロパーやベルクソンに関連する研究の動向を知っているプロパーにしかわからないような婉曲表現が何度も使われており、これは思想史を更に勉強したら分かるという問題ではないと思った。これはそもそも新書というプロダクトの制作・編集方針として間違っており、こういう文章はベルクソンの学会やプロパーのコミュニティで回覧するべき内輪のエッセイとして書かれるべき文章だと思ったのである。

しかし、こういう本が出版されてしまうリスクはあるわけで、リスクを避ける努力はカスタマーにも求められる。同じ間違いを繰り返さないためには、やはり新書のように安価で分量の少ないコンテンツであっても、それを通読するには数時間の《我々自身の取り返しのつかない人生》を消費するのであるから、店頭で序文ていどはざっと眺めるべきであろう。もちろん、それ自体が無駄な時間の使い方であるとも言えるが、スクリーニングなしでクズみたいな本を手に取らずに済ませるということは非常に困難である。間違いなく自分が読むべき本を選んでくれるような、全幅の信頼を寄せられる書評家とか自分の《知的使用人》でもいない限りは、やはり自分の手で取ってみて判断する他にないだろう。そもそも大多数の人たちは買ってから判断する余裕などない。お金を出して買うこと自体が金銭的な《チャレンジ》なのだから、まずリスク対策の第一義はクズみたいな本を読まずに済ませるということではなく、買わないようにすることが大切なのである。

もちろん、皮肉な言い方をすれば、専門的な勉強をすることでこのようなクズを掴まされるリスクは低減するとも言いうる。僕は、少なくとも科学哲学を専攻していたおかげで、実は大半の科学哲学・分析哲学の本を買わなくなった。どれほどネットで話題になっていたり出版社のサイトでプロモートされていても、そういう本の多くは見掛け倒しにすぎないと知っているからである。確かに、かつて永井均氏が述べていた哲学と思想の対比で語られた「思想」としての、手軽な alternative を書いているだけだからという場合もある。特に最近のアメリカのプロパーは critical thinking のような揚げ足取りを大学院の演習でやりすぎているからか、底の浅い批評を繰り返すだけで何か独創的な結論へ到達できるかのような、井戸の底に向かってボールを壁に投げ当ててバウンドさせるような議論を好む傾向にあるが、そういう《学生寮で深夜にやってるような類の議論》を積み上げても学術に真の進展はない。

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