2019年11月21日 に初出の投稿

Last modified: 2019-11-21 15:31:40

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https://twitter.com/CliffordSosis/status/1197368789354139649

「ウィーン学団」と言えば、盲目的に『論考』を信奉して行き詰まった(ファン・フラッセン曰く「華々しい破滅に至った」)人々という描写が定番となっていて、僕はこんなものはにわかに信じていないのだけれど、いまでも上記のように表現されるらしい。

もちろん、オッカムの剃刀とまでは言わずとも、合理的な再構成なり一定の定式化というものは必要だ。そして、そのような定式化なり短絡が一つのコミットメントであると自覚したうえで、恐らくは色々な人々がそれぞれに自分の見識において異なる定式化にコミットした上での成果(もちろん行き詰まりの方が多いとは思うが)を突き合せることが、学術活動の進展をもたらすと期待して良いのだろう。現実にも、プロパーは各自の関心や見識に従ってそれぞれ(事実上は勝手に、そして自覚があるかどうかはともかく)コミットメントを重ねている。

そのようなわけで、あまりにも一つの定式化が強固になりすぎると潜在的なリスクも大きくなりうる。とりわけ、何らかの括弧たる研究成果の上に立ってというよりも、寧ろ教科書的なステレオタイプがミームとして普及しているにすぎないと言いうる現状では、そのような定式化の理解を共有し続けることで何が達成できたのかと逆に問われた場合、そこで特に画期的な成果がなければ、われわれが素通りしてしまっている型に嵌った理解を再考してみるべき機会であると指摘しても良いだろう。他にも、たとえば「科学革命」やら「聖俗革命」などと言われる劇的な変化なんて本当にあったのかとか、「新科学哲学」のインパクトは(冷戦時代だったがゆえに)何か特定の脈絡に歪められていたのではなかったかとか、色々と問い直せる。

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